最悪な結婚生活2
「シイラ、おかえりなさい」
弱々しくベッドで寝ている母の姿に、シイラは涙が溢れた。
記憶の中の母よりも、随分と手も頬も痩せこけていた。そして随分とちいさく感じる。
今まで母を置いていったことに後悔は無かったが──この時に、初めて後悔をした。
母が寝入ったところで、部屋を後にして自分の部屋に戻ろうと歩いていた。
一応シイラも母も、『使用人』として侯爵家に籍を置いている。特に母エミリーは長年侯爵夫人のサポートをしていたので、侯爵夫人の仕事部屋に近い、書斎付きの個室を与えられていた。
シイラはその部屋に来る前の、男爵家の荷物なども置かれてある部屋を使っていいことになっている。ただ、その部屋は本館と渡り廊下で繋がれた別館にある。
少し遠いな、と思いながら渡り廊下に向かっていた、その時だった。
──背筋に、氷水を流し込まれたような感覚が走る。
(あっ……)
これはまずい、と足早に過ぎ去ろうとした。
後ろに感じる視線は──アルヴィスで間違いなかったからだ。
しまった、このまま進むとアルヴィスの部屋の前を通ることになってしまう。
遠回りになるが、角を曲がって別の方向から行こう。
そう思い踵を翻した──そのときだった。
「逃げるな」
後ろから腕が掴まれる。
間違いない。彼に……アルヴィスに捕まってしまったのだ。
ゆっくりと振り向くと、アルヴィスは憎悪のこもった瞳で、シイラを見下ろしていた。
何を話したのかは、覚えていない。
ただ彼は力任せに自分の部屋に、シイラを引き摺り込んだ。そして気がつけばシイラは無理矢理身体を暴かれ、犯されていた。
後ろから覆い被さられて、掌でシーツを握っている。耳元でアルヴィスが「壊してやる」と低い声で囁く。
その光景は鮮明に覚えている。
そして朝になり、まさに“事後”の光景を、メイドや従者に見られてしまった。
アルヴィスはしれっと『子供ができた可能性は大いにある』と言って、シイラを手元に置いておくよう圧力をかけた。
さすがに侯爵夫妻は、シイラを『妾』にすることは反対した。
もし子供ができたとしても、表向きは夫妻の養子に迎えて、シイラをこの家から出そうとした。
だがアルヴィスは、『それなら、シイラと結婚すればいい』と。
『そもそも帝国側もシイラを自由にさせないでしょう。シイラを向こう、ノクティース側に渡したくないなら、うちが“監視目的”で結婚をすればいい。幼い頃に父を亡くした元男爵令嬢と、引き取られた先の侯爵家令息との結婚は、社交界でどんな評判になると思います?』
アルヴィスはそんなこともこじつけ、周囲も丸め込んだ。
そしてその事件から三日後、ただ誓約書を提出するだけの結婚をした。
誓いの儀式も何もない、隠された結婚だった。
それをアルヴィスは望んでいた。
まるでシイラを、外の世界と切り離すかのようだった。
──そこからの日々は、また閉塞感により心が蝕まれた。
アルヴィスは騎士団に所属していたので、日中は城での勤務があった。
なので自由な時間は多くあったが、部屋からは一歩も出なかった。アルヴィスは研究することについては止めなかったので、ひたすら部屋に閉じこもって本を読み、研究をした。
それは母を回復させる為の研究でもあった。
そして徐々に母は、研究の成果により回復していった。
それだけはアルヴィスとの結婚生活で唯一の喜ばしいことであった。
そして結婚し、一ヶ月が経過する頃──子供が授かっていることがわかった。
これで本格的に、レーヴライン侯爵家から……アルヴィスから逃げられないことがわかった。
だからだろうか。現実逃避するように、シイラは研究にのめり込んでいた。寝室横の書斎で、朝から晩まで本を読み、理論を組み立て……部屋の片隅に作った実験室で実験をする。ただそれだけの毎日だった。
アルヴィスとの結婚生活の多くは覚えていない。
ただ重いお腹を抱えながら、毎日研究に没頭していた。
──まるで何かから追われているように。
だけどそれも、一年もしないうちに終焉を迎えた。
「レーヴライン侯爵家の結婚という一大イベントが、皇室に報告されて無いとは酷い話ではないか?」
シイラの部屋に現れたのは、第二皇子のジェイコブ。
当時は第一皇子が亡くなり皇太子であった。
騎士団に勤務中のアルヴィスも、後ろに立っている。
ジェイコブは、アルヴィス以上の冷たい目でシイラを見下ろした。
彼の含みのある笑みは──結婚報告を聞きに来た顔でないことは、一目でわかる。
思わずごくり、と息をのみ、身構える。
「実はシイラ嬢に『ノクティースのスパイ』という疑惑が向けられている。少し話を聞こうではないか」
勿論、こんな生活の中で『スパイ』なんてできるはずはない。
ただ敵対するノクティースと繋がりを邪推されるのは、シイラの想定内ではあった。
部屋に足を踏み入れたジェイコブの後ろに、何名もの騎士が剣を構える。
アルヴィスはただ、苦味を噛み締めたような表情でこちらを見ていた。
ここで一度、シイラの記憶は途切れている。
次の記憶は、真っ赤な血の海の中、倒れているところ。
胸に刺さる剣の柄頭は、薔薇模様の中に青い宝石が煌めいている──それはアルヴィスのものである。
アルヴィスが愛用している、侯爵家に代々伝わる短剣。その青い宝石が返り血で、紫色に染まっていた。
それを見下ろす影も、アルヴィスで間違い無い。
この状況からして、回帰前の人生は、彼によって終焉を迎えたのだろう。
だけど、どうしてそうなったのか。
アルヴィスが、最後に何を言ったのかも。
その最期の瞬間は、靄がかかったように思い出せなくて……何もわからない。
**
「……シイラお嬢様?」
気が付くと、柔らかくて懐かしい呼び声が、遠くに聞こえた。
──重い。
まぶたを開こうとした瞬間、海の底にいるような感覚に囚われる。
意識が浮上するにつれ、鼻先をくすぐるのは、どこか懐かしい部屋の匂いだった。
ようやく目を開けると、淡い朝の光が、白いカーテン越しに差し込んでいた。
──おかしい。
身を起こそうとして、シイラは違和感に気づく。
身体が、やけに軽い。布団が大きく、腕が短い。
視線を落とすと、小さな手が毛布を握りしめていた。
丸みを帯びた指は、明らかに大人の大きさではない。
「……あれ?」
かすれた声は、今よりも随分と高い。
部屋を見回すと、木製の机、刺繍入りの白いカーテン、臙脂色のソファー。
どれも見覚えがあった。忘れようとしても、忘れられなかった、かつての男爵家の自分の部屋だ。
「お目覚めですか? 今日はレーヴライン侯爵様がいらっしゃいますので、早めにご準備をお願いします」
目の前にいる侍女にも驚きを隠せない。男爵家に仕えていた侍女だ。それに彼女の言葉が、決定打だった。
慌てて鏡の前に立つと、そこに映るのは幼い頃──十歳の頃の、自分の姿だった。
そのことを理解した瞬間、心臓が大きく脈打った。
(……侯爵様がいらっしゃる日)
今日が何の日か、忘れるはずがなかった。
レーヴライン侯爵が、クニューベル男爵領を訪れる日。
それは──父が亡くなる日だ。
そのことを理解した瞬間、全身に鳥肌が立つ。
同時に、熱い何かが胸の奥に灯った。
(未来を知っている私なら……)
あの日の結末を、知っている自分なら。
ひょっとしたら……父を、救えるかもしれない。
血に染まった地面を、あの絶望を、なかったことにできるかもしれない。
そして──
(アルヴィスと、結婚しない未来へ行ける)
あの閉塞も、恐怖も、失われた命も、すべて回避できる道を選べるかもしれない。
(そのためなら何だってしてやる!)
シイラは拳を握りしめる。
運命を知る者として。
二度目の人生を与えられた者として。
全てを守ってみせると、静かに心に誓ったのだ。
──今度こそ、みんなで幸せになる。
明日も何話か投稿します




