最悪な結婚生活1
──アルヴィスとの結婚生活は、一年にも満たなかった。
シイラにとっては最悪な形で始まり、最悪な形で終わった。愛も、救いも、未来もなく……そこにあったのは閉塞感だけだった。
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すべての始まりは、回帰する前の人生でのこと。
シイラが十歳の時だった。
クニューベル男爵家はもともと侯爵領に隣接する地にあり、レーヴライン侯爵家が所有する森の管理の一部を任されてきた。
その森は侯爵領の中でもひときわ寒冷な地域に位置し、りんごやベリー類といった果実の栽培が行われている。
寒冷地の暮らしを知り尽くした男爵家は、その経験と知識を生かし、森の管理を担っていたのだ。
誠実な父の元には同じく誠実で真面目な者が集まり、決して裕福ではないが幸せに暮らしていた。
その日は、レーヴライン侯爵──アルヴィスの父、バルドリック・レーヴラインが、視察のために男爵領を訪れる日だった。
「よしよし、いい子だね」
シイラはいつも通り、領地の動物“ヤルマ”の世話をしていた。
ヤルマの世話はこの家の女性の仕事なのだ。
この動物は馬のような見た目をしているが、一回り小さくて足が太く、馬よりも優れた脚力を備えている。急な斜面を駆け登る姿は、馬と言うよりもヤギに近い。
それに馬よりも保湿性の高い密な毛も装備しているので、寒冷地で山岳地帯でもあるクニューベル男爵領は、馬よりもヤルマでの移動が一般的なのだ。
ちなみにヤルマの生息域は少なく、帝国中で飼育されている場所も、家畜化に成功したのもクニューベル男爵領のみらしい。
シイラはヤルマにいつもの飼料──二種類の牧草に、ネバの葉を混ぜたもの を与える。
なぜかヤルマは低層樹のネバの木に生える、ネバの葉が大好物。ネバの木の由来もヤルマが葉をクチャクチャ咀嚼していることから名付けられたらしい。ネバの木は今のところ男爵領の森の入り口付近にしか生息しておらず、定期的に飼料として刈っている。
牧草を食べ終わり、ネバの葉をクチャクチャと食べるヤルマにブラッシングをしてやる。
今日ここの領主の牧場に連れてきたヤルマは、侯爵様や従者に乗っていただく大切な役割がある。綺麗な状態で乗っていただきたいので、シイラは丁寧にブラシをかけている。
「シイラ、お客様がいらしたのでご挨拶を」
そして何人も身なりのきっちりとした人を連れた父、ダリオがやってくる。
「はじめまして、シイラ・クニューベルです」
「おや可愛いお嬢さんだね」
一歩前に出たのは、バルドリック・レーヴライン侯爵。
シイラから見ても一目で、彼が貴族であることがわかる佇まいだ。
「はじめまして、バルドリック・レーヴラインです。今日はヤルマをお借りしますね」
「はい!是非とも可愛がってください」
バルドリックとダリオは、ヤルマを目の前に色々と話をしている。ダリオは特にヤルマに興味を惹かれているようで、ふわふわの毛を興味深そうに撫でていた。
「お嬢さん、馬もこちらでいいですか?」
後ろから従者が、何頭かの馬を連れてやってきた。
侯爵一行が乗ってきた馬だろう。
「あ、はい大丈夫ですよ。向こうの厩舎をお使いください」
「できれば餌も与えたいのですが」
「向こうに牧草も用意してます。でも食べるでしょうか……」
男爵領には馬が少なく、飼料はヤルマ用に作られているものだ。他の土地の馬が食べるかはわからない。
心配したシイラは一緒についていき、従者と一緒に馬の世話をするとこにした。
「あ、この牧草は大好物みたいです」
「良かったぁ〜」
厩舎に繋がれた馬が、飼葉桶の草をモリモリ食べ始めた。どうやらお気に召した模様だ。
足りなくなりそうだったので、みんなでヤルマ用の飼料を運ぶことになった。
「これも同じ種類ですか?」
「はい、でもヤルマ用に少し他の草も配合してます」
「そうですか、でもこれで大丈夫だと思いますよ」
ヤルマ用の飼料置き場から、みんなで台車を使って運び込む。馬は飼料が足された瞬間、待ちわびたようにがっついて食べている。
その様子を見ながらみんなで「よほどお腹が空いていたんだな」なんてことを言っていた。
そしてみんなでわいわいと、馬とヤルマの違いについて話しながら戻っていた、その時だった。
──馬が暴走したのは、一瞬のことだった。
「危ない!」
厩舎の扉を突き破り、一頭の馬が暴れ回った。
制御不能な速さで突進してくる馬を、父ダリオは考えるより早く身体を動かしていた。
バルドリックを庇い、馬の後脚で突き飛ばされて、身体が宙を舞った。
叫び声と共に、地面に広がる赤。
暴れる馬は、それでも尚止まらない。何人もの男を薙ぎ払い、ようやく脚が折られたところで倒れ込んだ。
シイラは、その場から動けなかった。
ただただぼうっと、血を流す父を見ることしかできなかった。
──そして父は帰らぬ人となった。
バルドリックも大怪我を負い、従者のほとんども負傷していた。
そしてレーヴライン侯爵家の者が駆けつけると同時に、ダリオの葬儀が行われた。
「この度は私達のせいで……」
父の棺の前で、一度も会ったことのない侯爵夫人、ドロテア・レーヴラインが大粒の涙を流し、肩を震わせる。
自分の家が起こした不祥事を悔いるだけでなく、彼女は同じ子供を持つ親として、愛する我が子を置いて逝く無念さに心を締め付けられていた。
そして葬儀の後、レーヴライン侯爵家からある提案をされる。
『侯爵家に来ないか?』と。
シイラは未成年であるし、直系の子供であっても女性は成人してからでないと継承権を得る事ができない。
当主が不在のまま一年が過ぎると家は取り潰しになってしまうので、このままだとクニューベル男爵家は取り潰しになってしまい、二人は路頭に迷うことになってしまう。
それならばレーヴライン侯爵家が男爵領を買い取り、二人を引き受けると。管理は信用できる者を置き、男爵領で生活する者全ての生活も保証すると言い切ったので、二人はその提案を呑むことにした。
そして二人は、レーヴライン侯爵家に引き取られた。
──そしてシイラは、アルヴィスと出会った。
「こちらが息子のアルヴィスです」
ドロテアに紹介され、シイラは初めて彼と目が合った。
恐ろしいほど整った顔立ちで、プラチナブロンドの髪はまるで絹糸のように、光を含み輝いていた。
だが薄紫の瞳は、感情の読めない目だった。
(……怖い)
シイラはこの人と接してはいけないと、なぜか本能的に悟ったのだ。
──なぜか侯爵家での生活の多くは覚えていない。
ただ『アルヴィスと関わってはいけない』という思いが変わることはなく、彼を避けて生活していた。
広い侯爵邸では、滅多に彼に会うことはない。
だけど彼は、シイラを探しては遠くから見つめていた。
シイラは常に感じる視線が怖く、閉塞感が徐々に心を蝕んでいった。
そしてシイラは、ある決断をした。
「レーヴライン侯爵、私、隣国のノクティースに留学したいです」
ノクティースは隣国の中でも国交が始まって日が浅く、まだ互いを探り合っている段階。だからこの国から留学生を派遣しようにも、なかなか志願者が集まらないと聞いた。
それにノクティースは元クニューベル男爵領と似た寒冷な土地らしく、その点もシイラの興味を惹いたのだ。
しばらく考えた侯爵だったが、熱心にノクティース語の勉強をするシイラを見て、彼女を留学に推薦することにした。
そしてシイラは十一歳で、ノクティースの国立学院に留学したのだ。
ノクティースでの日々は、息ができた。毎日のびのびと過ごし、毎日が充実していた。
特にノクティースは薬学に精通しており、薬学の勉強をすればするほど、シイラはのめり込んでいったのだ。
そして一度も帰国することなく八年──最高学年を卒業する十九歳になっていた。
そしてシイラは、決断を迫られることになる。
(どうしよう、ここに残って教員にならないかって言われても……)
卒業を控えた頃、学院側から教員への誘いがあった。教員をしながら研究を続けないか、というものだった。
元々シイラは帰国する予定であった。そもそもハンベルリ帝国側から帰国命令が出ていて、帰国後は皇都──皇帝が直接治める帝国の中心地 の資料室勤務の文官としてのポジションが用意されていた。
というのも実は両国の国交の行方が怪しくなっており、ハンベルリ側がシイラを警戒していて、手元に置いて監視したいのだ。そのことは直接言われた訳では無かったが、薄々感じていた。
シイラはもっと研究がしたいので、学院側に残りたかったが、許してくれるはずもないだろう。
レーヴライン侯爵家に相談しようにも、手紙の返事が届かなくなって数年が経っていた。
恐らくどこかで妨害が入っているのだろうと思い、一度きちんと話すために帰国しようか迷っていた。
──そんな時に、侯爵家の使者が直々にやってきた。
「シイラ嬢、お母様が病に倒れました。今すぐ帰国お願いします」
わざわざ数名の侯爵家の騎士が、シイラを帰国させる為だけにやってきた。正直今の国の情勢では、捕らえられてもおかしくはない。かなりの危険を伴いながらも来てくれたということは、母の病気も嘘ではないのだろう。
シイラは真っ先に帰国を決め、卒業証書だけを手にしてハンベルリへ──レーヴライン侯爵家へと戻った。
続きます




