さいごのまほう1
──蒸留器の中で、薬草の成分を含んだ液体が落ちていく。
ガラス管を伝った雫が、透明な受け皿に一滴、また一滴と落ちる。その様子を確かめながら、シイラはほっと息を吐いた。
「……うん、悪くないかな」
薄く色づいた液体を瓶へ移し替え、光に透かしてみる。
ふわっと香る薬草の匂いが鼻腔をくすぐった。
ふと顔を上げると、窓から太陽が差していた。
大きな窓からはどこまでも広い空が見える。
ここはレーヴライン侯爵家の一室。アルヴィスが用意した研究室だ。
勿論最初は断るつもりだった。
とりあえず一人で研究をするという名目で、領地に帰る予定で、アルヴィスと距離を空けるつもりだった。
そう思っていたのに。
「とりあえず男爵家の設備を参考に、ノクティースからも研究道具を取り揃えさせていただいた」
案内された研究室を見た瞬間、シイラの決意はすぐに崩れた。
まさに男爵家の研究設備の上位置換だろう。
回帰前に見たノクティースの最新設備が取り揃えてある。そして壁一面は薬品棚になっており、瓶の中には帝国各地から取り寄せた薬草が並んである。
──これを使わないなんて!
あっさりと設備に陥落してしまい、シイラは今こうして侯爵家へ通う日々を送っている。
少し休憩しようと、背伸びをして立ち上がった。
棚にある使われていないガラス器具が、陽光を受けてきらきらと輝いている。いつもの午後の光景だ。
だけどシイラは、なぜだが言い難い違和感に包まれてしまう。
──ここは、こんなに明るい部屋だったのかしら?
記憶の中にあるこの研究室は、もっと薄暗かった気がする。いつもカーテンが引かれていて、仄かに暗い雰囲気だった気がするのだ。
そう思いながら、壁にある隣の部屋に通じる扉を見る。
この隣にある部屋は、本来主寝室として使われる寝室。回帰前も夫婦で使っていた寝室だった。だが今は閉ざされている。
『私に寝室は必要ないからな。執務室にベッドを置いて寝ている』と、アルヴィスは言っていた。だがその後に『だがいずれ使うだろう、二人で』としれっと付け足すのは、本気か冗談なのか区別がつかない。
「ちょっと休憩しようかな」
研究台の上では、次の試作品の材料を乾燥中。まだ時間はかかるだろう。
少し散歩をしようと、シイラは席を立った。
──侯爵家の屋敷は広い。
それそこ敷地だけで、男爵領の三分の一はあるだろう。皇都という帝国の中心地にも関わらず、だ。
暇な時はこうして散歩をしながら、回帰前のことを思い出そうとしていた。だけどあまり収穫はない。
回帰前の記憶はどうしても曖昧で、きっとシイラの予想より、覚えていないことが多いのだろう。
アルヴィスからも、屋敷の中は自由に歩いていいと言われている。もちろん鍵のかかった部屋は別だが、それ以外はほとんど立ち入りを許されていた。
そんな破格の扱いでいいのか?とシイラは驚いているが、今のところすれ違う侍女たちも好意的なので、甘えさせて貰っている。
研究室を出ると、長い廊下が続いている。窓から差し込む光が、廊下を照らしていた。
その中をぼんやりと歩きながら、シイラは廊下を進む。
その時、見覚えのある扉があったので立ち止まる。
(この部屋って……)
記憶を辿りながら、そっと取っ手を回す。
重い扉が静かに開いた。
そして広い室内に並ぶのは、一面の本棚だ。
所狭しと並べられていて、部屋全体に古い紙の匂いが漂う。
(なつかしい、書庫だ)
実は回帰前、よく出入りしていた場所なのだ。
今は必要な資料は研究室に揃えられているため、来る必要が無かったのだ。
シイラは懐かしみながら、書庫内を歩く。どれも見覚えのあるものばかりだ。
「……え?」
とある一角に来た所で足を止めた。
何だか見覚えのない、奇妙なものが並んでいるのだ。
鮮やかな装丁は、この書庫の中ではかなり浮いている。
とりあえず一冊手にしてみると、今まで見たことのない華やかな表紙が描かれていた。
そしてタイトルを見ると、どう見ても──
「ロマンス小説?」
なぜそんなものがここにあるのだろう。
それをじっくりと観察してみる。
発行元を確認すると、更に驚いた。
「……エイステミ国?」
エイステミ国は自由と情熱の国として知られる、南方の国。
それこそ恋愛こそが全てで、情熱な愛に生きる国と言われている。愛のために詩を詠み、歌を捧げ、すべてが愛の名のもとに許される国でもある。
そんな情熱の国のロマンス小説とは、どんなものなのか。興味が湧いたシイラは、恐る恐る一冊手に取った。
そしてパラパラとページを捲ると──数ページ読んで、シイラはそっと本を閉じた。
「……無理」
刺激が強すぎた。
手にした本のタイトルは『鳥籠に囚われた無垢な薔薇』
無垢な令嬢が冷血な伯爵に囚われ監禁されるという話だ。
「逃げるな、私の小鳥」
「君の世界はここだけでいい」
「外の世界など必要ない」
「私がすべて与えよう」
わずか数ページだけでこの甘ったるい台詞。お腹が一杯どころか胸焼けを起こしそうだ。
更に本棚に並んだタイトルを眺めてみる。
『花園の妖精の純潔』
『生贄の姫は聖夜に祈る』
ドがつくほどの、ロマンス小説にありがちなタイトルだ。
──これは誰の趣味なのか?
まさかドロテア夫人なのだろうか。
いやまさか……と思い直す。それならば自室に置いているだろう。
(あ、もしかして)
アルヴィスの言葉が脳裏に浮かぶ。
──困ったお姫様だ。
──花の妖精よ。
シイラは遠い目をして、静かに本棚を見上げた。
(……出どころ、ここか)
何がきっかけで、どうして彼はロマンス小説に情熱を傾ける愛好家になってしまったのだろう。
これも一種のバグなのだろうか。
もうこれに関しては考えても仕方ないので、一旦忘れることにした。
そして別の棚の前で、ふと気になる本が視覚に入る。
レーヴライン侯爵家の歴史が刻まれている本だ。
恐らく回帰前も読んだことがあるはずだ。
確かにこの革装丁に、この金箔のタイトル押しは見覚えがある。でも内容は……思い出そうとしても、なかなか思い出せない。
なんだか心がモヤモヤとして仕方ない。
とりあえず手に取って、読み始めることにした。
まずレーヴライン侯爵家の起源について。
元々レーヴライン侯爵家は、滅んだ王家ドストラム王家の王弟が設立した家門。
遡ること四百年以上も前のこと──
ドストラム国の隣国には、“聖女様”と呼ばれる王妃がいた。
夫の死後、若くして産んだ息子が王に即位することになったが、彼女は王太后の称号を辞退する。そして静かな暮らしを求め、ドストラム国の修道院へ身を寄せた。
そして晩年一人の子供を生み、幼い子供を残し亡くなった。その子を当時の王弟夫婦が養子に迎えて始まったのがレーヴライン公爵家。
その後その隣国は滅び、ドストラム国もハンベルリ帝国に併合された。
しかしレーヴラインの家門は“公爵”から“侯爵”へ格は下がったが、未だに存在し続けている。
(あ、聖女の記述もある)
以前パルドリックが話していた聖女に関しても、詳しい記述があった。
聖女の子孫であるレーヴラインの血筋には、ごく稀にその聖女の力を持つ者が産まれるとされているのだそう。
初代聖女様と同じく、産まれた時から青い髪と両腕に聖痕を持ち、聖なる予言の力を持って産まれてくるのだと。その存在は国を繁栄に導くと期待されているという記述がある。
──それで初代皇后は、帝国を正しく導き繁栄させた。
敵国出身にも関わらず、ハンベルリ国が戦争で得た権力を余すことなく民に還元したという。それにより直接帝国が手を下すことなく、属国が増えるという不思議な現象が起こったのだ。
ただの国が“帝国”と名前がつくまでに成長したのは、この初代皇后のおかげだ。
(何で覚えて、ないんだろ)
こんな重要なことを忘れるのだろうか。
いくら記憶が曖昧だからと言って、ここまで忘れるのだろうか。
ふと思い出したのは、あの玄関ホールのステンドグラス。
青い髪の女性を見ると、なぜか心が痛むのだ。
そして侯爵家の過去の歴史を紐解くほど、胸が張り裂けそうになる。
だけどどうしても──思い出せない。
(……やめよう)
きっと忘れていることに理由はあるのだろう。だから知らなくて良いのではないか。
そう無理矢理納得させて、シイラは本を閉じた。
続きます




