一目惚れの瞬間
そして迎えた翌日。
特に事件も何もなく、シイラは出発の準備を始めていた。
(……昨日は、何事もなかったな)
何か事件が起きる──むしろアルヴィスが起こすのではないか と思っていたが、何もない静かな夜だった。
だが今日の問題は別方向からやってきた。
(これ、すごいドレスだな……)
朝起きると、ウルフラに「本日はこれです」と有無を言わさない顔で着せられたのが、今着ているこのドレス。
ピンクの生地にはダリアの細やかな刺繍が施されて、繊細な模様が目を引く。そして幾重にも重なるレースの裾には、細かな宝石が縫い込まれていて、動くたびに光を受けて、花びらが揺れるようにきらめいていた。
それだけの装飾が施されているにも関わらず……驚くほど軽いのだ。
(見た目はすっごく重そうなのに軽い……技術力どうなってるの……)
感動半分、戦慄半分である。
これを“普段着扱い”するのが侯爵家なのだと思うと、改めて格差を感じずにはいられない。
玄関ホールに降りると、既にアルヴィスが待っていた。
「シイラ」
名を呼ばれた瞬間、彼が息を呑む。
そして頬を深紅に染めた。
「今日のあなたは、ダリアの妖精のようだ。……ああ、美しい」
両手を取られ、うるんだ瞳で見つめられる。
正直、それを見ていた使用人たちは引いていた。
『永久凍土の騎士様』は、今や春の陽気に浮かされたただの青年である。
ごほん、と管理人が咳払いをして仕切り直す。
「侯爵様、ご出発の準備が整いました」
「ああ、行こう」
シイラの腰に手が回され、そのまま馬車へ。
エスコートは完璧だが、顔がうっとりしているせいで威厳は皆無だ。せめて部下の前では威厳を保てと突っ込みたいが、あまりに恥ずかしくて縮こまる羽目になる。
そしえ準備を終えると、馬車が動き出す。
向かい合って座る距離が、やけに近く感じる……のは、アルヴィスが身を乗り出してじーっと見つめているからだろう。
「昨日はすまなかった」
「お仕事だったのでしょう?仕方ないです」
昨夜のアルヴィスは、夕食を取った後すぐに『仕事がある』と行ってしまった。
エマルウェル曰く、シイラが眠った後に様子を見に来たらしい。
だが起こさず、ドレスを届けただけで帰ったという。
(律儀というか……変なところで紳士というか……)
アルヴィスは額を押さえ、悔しげに息を吐いた。
「私が嫌だった。夕食だけで終わるのは、つまらなかったな」
「……」
「もっとあなたと話したかった」
少し拗ねたように口を尖らせる。
その様子は子供のようで、思わずぷっと吹き出しそうになる。
話題を変えるように、シイラは口を開いた。
「そういえば、ウルフラとエマルウェルが少し打ち解けていました」
「……そうか」
当然だ、と言わんばかりの顔。
「トローシン家は代々うちに仕える騎士の家系だ。ウルフラは私から見ても信頼できる。これからも仲良くしてやってくれ」
何だか得意気な感じが、少し鼻に付く。
(エマルウェルから陥落していくとか、ないよね?)
まさか身内から侯爵家に取り込まれる展開になってしまうのだろうか。
「……だが、申し訳ないが」
アルヴィスが視線を落とした。
「あなたの口から、あまり他の男の名を聞きたくない」
「……?」
「どうやら私は、思っていた以上に心が狭いらしい」
あまりにも真顔で言うもんだから、シイラは眉間に皺が寄る。
「あなたが目の前にいるのに、語り合う時間が足りない。他の男の話をする時間すら惜しい」
(面倒くさい……けど、嘘は言ってない顔だなこれ)
もはや呆れてため息すら出なくなってしまった。
「アルヴィス様は」
「何だい、花の妖精よ」
(それは違うわ)
とりあえずスルーを決め込むことにして、本題に入る。
「そもそも私のことや、クニューベル男爵家のことを、どこまでご存知なんですか?」
それはずっと疑問に思っていたことだ。
彼は男爵家を“理解している”前提で話している。
それは“名門の侯爵家”なので色んな情報が入ってくるからだ、というのはわかる。
「私は昨日、ウルフラから侯爵家が皇室と対立していると初めて聞きました。領地で暮らしていた私は、何も知らなかった。……あなたもそうではないでしょうか?」
クニューベル男爵家は社交界に進出しておらず、他の貴族と殆ど交流がない。
特に侯爵家の森の管理権を譲ってからは、尚更どの家とも交流をしてこなかった。
だから、アルヴィスの情報と男爵家の実情に隔たりはあるのではないかと思っている。
──だからこそ、彼に期待を抱かせているのではないか、と。
クニューベル男爵家は、侯爵家と釣り合いが取れる家ではないのは明白。
事業にしろ、婚約にしろ、どう考えても侯爵家側のメリットが見つからないのだ。
「実は前から、クニューベル男爵家は気にかけていた」
返ってきた言葉は、予想外だった。
「あの派閥争いの中でクニューベル男爵家が距離を置いたのは賢明な判断だったと思う。だが侯爵家にとってはつまらない話であることに間違いはない。そうじゃないか?」
アルヴィスは愉快ではなさそうに唇を歪める。
「クニューベル男爵家のアケレアの止血剤は、騎士にとって今や欠かせないものだ。あれで命を救われた者も多い。だから騎士になれば一度は、あなた方に感謝するんだ」
シイラにとって、初めて耳にした話だ。
自分たちは、ただ注文通りに出荷しているだけ。
どんな思いで使っているか、なんて殆ど耳に入ってこない。
(……そうだったんだ)
彼のまっすぐな瞳は、嘘をついていないように見える。
「あの祝賀会で、クニューベル男爵家の御令嬢がいるという声が聞こえ、振り向いた先にあなたが居たんだ。あなたを見た瞬間、世界から音が消えた。色褪せて見える景色が一気に色付いた。そんな感覚だった」
甘く蕩ける眼差しを、余すことなくシイラに向ける。
「これを一目惚れと言わずして、何と言うのだろう?」
あまりにも恥ずかしい台詞だが、あまりにも真面目に言うので、シイラの方が恥ずかしくなる。
赤面し縮こまるシイラに、更にアルヴィスは熱を持った瞳で見つめる。
「あなたが何を恐れているのかは分からない。だが今の侯爵家は皇室に匹敵する力を持つ。あなたを蔑む者がいれば、私が黙らせる。あなたの未来を脅かすものは、この手で排除するので問題はない」
力強い宣言だ。
それは頼もしくもあり──同時に少し怖い。
(何でそこまで……)
ただの一目惚れだけで、そこまで守られる理由になるのだろうか。
「しかし、我々は一緒に過ごす時間が足りなさすぎるのではないだろうか」
(出会って三日目だけどね……)
「きっと私の知らないあなたが、まだまだいる」
(当たり前だ……)
「よし、今日は存分に語り合おうではないか」
アルヴィスの瞳が輝いている。
(……面倒くさいことになった)
そう思うけれど──ほんの少しだけ。
その“面倒くささ”が、嫌ではない自分がいることに、シイラはまだ気づいていなかった。




