第9話:一途な解放、あるいは春の予兆
九条徳三郎が捨て台詞と共に去り、黒燿館に静寂が戻ってから数日が経過した。
湊は、リビングの大きな窓から差し込む陽光を浴びながら、銀のティーポットを丁寧に磨いていた。窓の外では、放置されていた庭木の一部が湊の手によって剪定され、冬の眠りから覚めた沈丁花が、微かな、だが確かな春の香りを漂わせている。
「……九条さん、お加減はいかがですか?」
二階の書斎から降りてきた栞に、湊は穏やかな声をかけた。
彼女は、かつての「幽霊のような未亡人」の面影をすっかり失っていた。湊が選んだ、淡い若草色のワンピースを身に纏い、その瞳には知的な光と、それ以上に温かな「生命の輝き」が宿っている。
「ええ。驚くほど体が軽いの。……あの叔父様を、あなたがあんなに鮮やかに追い払ってくれてから、ずっと胸に支えていた何かが、ふっと消えたみたい」
栞は湊の隣に座り、差し出されたハーブティーの湯気を愛おしそうに見つめた。
彼女にとって、親族は逃れられない運命の鎖だった。だが、湊はその鎖を、論理と誠実さという名の鍵で、あっさりと解いてみせたのだ。
「久遠さん。私……今日、少しだけ外を歩いてみたいわ」
「外、ですか?」
「ええ。この数年、私はこの屋敷の門を一歩も出られなかった。……誰かに見られているような、後ろ指を指されているような気がして。でも、今の私なら、あなたの隣なら、歩ける気がするの」
湊は、その言葉の重みを深く噛み締めた。
引きこもっていた天才作家が、自らの意志で「外」へ出ようとしている。それは、彼女の再生における、決定的な一歩だった。
「……承知いたしました。それなら、商店街まで買い物に行きましょうか。今夜は、九条さんの快気祝いに、とっておきの旬の食材を仕入れに行きたいと思っていましたから」
「ふふ。買い出しデートね。……なんだか、新婚さんみたいじゃない?」
栞の悪戯っぽい微笑みに、湊は少しだけ耳を赤くしたが、否定はしなかった。
彼にとっても、誰かと「日常」を共有するために外を歩くのは、あまりに久しぶりのことだったからだ。
二人は、春の風が吹き抜ける街へと繰り出した。
商店街の人々は、突然現れた「絶世の美女」と、その後ろを甲斐甲斐しく支える「眼鏡の誠実そうな青年」に驚きの視線を送った。だが、栞はその視線を怖がることはなかった。湊がさりげなく車道側を歩き、彼女の視界に嫌なものが入らないよう、一途に気を配っているのを感じていたからだ。
「あら、九条さん! お久しぶりねえ。お元気そうで良かったわ!」
八百屋の女将さんが声をかける。湊が毎日通い、栞の好みや健康状態を相談していた相手だ。
「ええ、おかげさまで。……彼の料理が、あまりに美味しいものですから」
「まあまあ! 良い旦那さん……じゃなかった、良いパートナーを見つけたわねえ!」
栞は顔を赤らめながらも、否定せずに小さく頷いた。
湊は、黙って新鮮なアスパラガスを吟味しながら、心の中で小さくガッツポーズを作っていた。彼の「一途な根回し」が、栞にとって心地よい居場所を街の中にまで広げつつあった。
買い物を終え、公園のベンチで一休みしていた時のことだ。
湊のスマートフォンが、短く震えた。
いつもの、弁護士からの「事後報告」だった。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、ついに住む場所を失い、生活保護の申請窓口に現れたようです。しかし、彼女があなたから不当に搾取した資産の履歴が公になり、さらに身内からの支援拒絶が確定しているため、手続きは難航している模様。彼女は窓口で「湊を呼んで! 彼なら何とかしてくれる!」と叫んで取り押さえられたとのこと。……彼女、あなたが今、誰と笑って春の風を感じているか、想像もつかないでしょうね。……なお、彼女の浮気相手は、別の金持ちの女性を騙そうとして返り討ちに遭い、警察の御用となったようです』
湊は、そのメッセージを一読し、無言で削除した。
かつての彼は、その女性が「お腹が空いた」と言えば、深夜でもコンビニへ走り、彼女のわがままをすべて「愛」だと勘違いして、自分の身を削り続けてきた。
その一途な誠実さが、どれほど醜い悪意に踏みにじられていたか。
だが、今の彼には、そんな過去を振り返る暇すらない。
「久遠さん? 何か面白いニュース?」
「いいえ。……以前の場所で、僕がずっと心に引っかけていた重荷が、ようやくすべて片付いたという連絡です。……もう、僕が振り向く必要のある過去は、どこにもなくなりました」
湊は立ち上がり、栞に手を差し出した。
「さあ、帰りましょう。今夜は、春の息吹を感じる温かいシチューを作ります。九条さんの新作、第一章を読み終える頃には、最高に美味しく仕上がっているはずですよ」
栞は湊の手を握り返し、その温もりに身を委ねた。
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の歩む道は、降り注いだ雨のおかげで、もうぬかるむことはない。
黒燿館へと続く坂道を上る二人の影は、夕日に長く伸び、重なり合っていた。
それは、どんな緻密なミステリーよりも美しく、完璧な「解答」だった。
「……ねえ、久遠さん。私、次の小説、ハッピーエンドにしてもいいかしら?」
「ええ。あなたが書きたいと思う結末が、一番の正解ですよ」
栞は幸せそうに微笑み、湊の腕に寄り添った。
雨降って、地固まる。
二人の物語は、今、本物の「家族」という形へ向かって、静かに、そして力強く動き始めていた。




