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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第10話:一途な体温、あるいは物語の変革

 栞の新作の第一章を読み終えた担当編集の若林は、応接室のソファで深々と溜息をついた。

 その手はわずかに震えており、眼鏡の奥の瞳は、驚愕と感動が入り混じった複雑な色を湛えている。

 窓の外では、湊が手入れをした庭の木々が春の風に揺れ、穏やかな午後の光が室内を琥珀色に染めていた。


「……先生。これ、本当に先生が書かれたんですか?」

「失礼ね、若林君。私が自分で書いたもの以外、誰がこの屋敷から原稿を出すっていうの?」


 栞は、湊が丁寧に淹れたアールグレイを楽しみながら、いたずらっぽく微笑んだ。

 彼女の表情は、一ヶ月前の悲壮感に満ちたものとは似ても似つかない。頬には健康的な赤みが差し、その瞳には知的な鋭さと、それ以上に深い「心のゆとり」が宿っている。

 

「いえ、そうじゃなくて……。もちろん先生の筆致ですが、信じられないんです。これまでの先生の作品は、凍てつく冬の夜に光る氷細工のように、美しくて、そして触れれば指が切れるほど冷たかった。でも、今回の原稿には……『体温』がある。読んでいるだけで、胃の奥がじんわりと温かくなるような、そんな優しさがあるんです」


 若林は、視線をキッチンの奥で夕食の仕込みをしている湊へと向けた。

 そこでは、湊がリズミカルに包丁を動かし、旬の春野菜を刻んでいる。

 トントントン、という規則正しい音。立ち上る出汁の香ばしい匂い。

 かつての黒燿館には存在しなかった「生活の鼓動」が、作家・九条栞の感性を劇的に変えていた。


「久遠さん。……あなた、先生に一体何を魔法としてかけたんですか?」

「魔法なんて。……僕はただ、九条さんがその日、一番美味しいと感じてくれるものを、心を込めて作っているだけですよ。あとは、夜はしっかり眠って、朝は太陽の光を浴びる。当たり前の生活を、当たり前に過ごしていただいているだけです」


 湊は手を止め、振り返って穏やかに答えた。

 彼にとって、家事は単なる「こなすべきタスク」ではなかった。

 かつての職場で、彼は数字や論理の整合性ばかりを求められ、自分の心が摩耗していくのを感じていた。だが今、目の前には、自分が作った料理を食べ、自分が整えた空間で、魂を削って物語を生み出す一人の女性がいる。

 彼女の健やかな笑顔を守ること。それが、湊という不器用な男が辿り着いた、新しい「誠実さ」の形だった。


 若林が原稿を大事そうに鞄にしまい、まるで宝物を手に入れた子供のような足取りで帰路についた後。

 屋敷には再び、穏やかな静寂が戻ってきた。

 

 湊は、片付けを終えてテラスの椅子に腰掛け、沈みゆく夕日を眺めていた。

 ふと、ポケットの中でスマートフォンが短く震える。

 画面には、弁護士からの定期報告が表示されていた。


 そこには、かつての婚約者が直面している、目を背けたくなるような現実が記されていた。

 住む場所を失い、誰からも手を差し伸べられず、最後には「湊さえいれば」と泣き言を漏らしているという。

 以前の湊なら、その報告を見て、胸の奥が冷たくなるような復讐心や、あるいは割り切れない虚無感に襲われていたかもしれない。

 

 だが、今の彼は違った。

 彼は画面を消すと、背後に立っていた栞の気配に、優しく微笑みかけた。


「……九条さん。起きていたんですか? 少し、風が冷たくなってきましたよ」

「ええ。……また、以前の場所からの知らせ?」


 栞は湊の隣に並び、彼の少し強張った肩にそっと手を置いた。

 湊は、スマートフォンをポケットの奥深くへと押し込んだ。


「いいえ。……以前の場所で、僕がずっと心に引っかけていた荷物が、ようやくすべて片付いたという連絡です。……もう、僕が振り向く必要のある過去は、どこにもなくなりました」


 湊の言葉には、迷いがなかった。

 彼は、かつての自分を「便利屋」として扱い、踏みにじった者たちの末路に、もはや一秒の関心も持っていなかった。

 彼が今、一途に守り抜きたいのは、隣で自分を見つめる、この少し浮世離れした、だが誰よりも温かな心を持つ未亡人の平穏だけだ。


「そう。……お疲れ様、久遠さん。これからは、私の知らないところで一人で苦しまないで。あなたのその真っ直ぐな誠実さは、もう二度と、誰にも安売りさせたりしないわ」


 栞は湊の手をそっと握った。

 その細い指先から伝わってくる温もりは、どんな精緻な論理や言葉よりも、湊のこれまでの人生を肯定してくれるように感じられた。

 

 その頃、海の向こうや遠くの街では、元婚約者が「自分を無償で愛してくれたはずの男」を失った代償の大きさに打ちのめされていた。

 彼女がかつて「当たり前」だと思っていた湊の献身は、実は砂漠の中のオアシスのような、奇跡的なまでの慈悲であったこと。

 そのオアシスを自らの手で汚し、捨て去った彼女に残されたのは、喉を焼くような乾きと、底知れない孤独だけだ。

 

「……九条さん。明日の朝は、少し早起きして散歩に行きませんか? 庭の桜の蕾が、もうすぐ開きそうなんです」

「ええ、喜んで。……あなたの見つける春を、私も隣で、ずっと一緒に見たいわ」


 孤独を溶かすのは、完璧な計算ではなく、一杯の温かいスープと、隣にいる人の体温。

 

 降り続いた雨が、二人の足元を誰よりも強く、そして優しく固めていた。

 

「……さあ、中に入りましょう。今夜は、九条さんの新作のお祝いに、少しだけ良いワインを開けましょうか」

「ふふ。管理者の許可が出るなんて、珍しいわね。……今夜は、素敵な夢が見られそうだわ」


 黒燿館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、消えることなく静かに輝き続けていた。


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