第11話:一途な春、あるいは聖域の雪解け
春の訪れは、黒燿館の庭に咲く沈丁花の香りとともに、騒がしい吉報を連れてきた。
リビングのソファに腰掛けた担当編集の若林は、興奮を抑えきれない様子で、手元のタブレット端末を湊と栞に突き出した。
「見てください、先生! 新作の第一章を先行公開した文芸サイトのアクセス数が、過去最高を記録しました! SNSでも『九条栞が優しくなった』『氷の女王が体温を得た』って、読者が蜂の巣をつついたような騒ぎですよ!」
若林の声が、高く磨き上げられた天井に反響する。
栞は、湊が用意したばかりの桜のシフォンケーキを一口含み、少しだけ困ったように眉を下げた。
「……大げさだわ、若林君。私はただ、書きたいものを書いただけよ。……隣に、私の物語を誰よりも先に、一文字も零さずに読んでくれる人がいる。それだけで、私の言葉は、自然と形を変えたのかもしれないわ」
栞の視線が、キッチンの片隅で静かにお茶を淹れ直している湊へと向けられた。
湊は、若林の狂喜乱舞を邪魔しないよう、あえて一歩引いた場所で控えていた。彼にとって、栞の成功は何よりの報酬だが、自分がその「要因」として公に語られるのは、気恥ずかしさが勝ってしまう。
「久遠さん、あなたですよ! あなたが先生の『生活』をデバッグ……失礼、完璧に整えてくれたおかげで、先生の感性が研ぎ澄まされた。もはや、文芸界の奇跡と言っても過言じゃありません!」
若林は湊に歩み寄り、その肩を力強く叩いた。
湊は困ったように笑いながら、若林のカップに熱い紅茶を注ぎ足した。
「僕は、彼女が健やかに目覚め、美味しくご飯を食べ、安心して眠れるようにしているだけです。……特別なことなんて、一つもしていませんよ」
その謙虚な言葉こそが、かつて誰に対しても「誠実」であろうとして、結果として自分自身を二の次にし続けてきた男の、本物の優しさだった。
若林が原稿の宣伝戦略や、今後の映像化の打診についての膨大な資料を残して嵐のように去っていった後、洋館には再び、柔らかな午後の静寂が戻ってきた。
「……ねえ、久遠さん。少しだけ、お庭に出ない?」
栞が、湊のシャツの裾を遠慮がちに引いた。
湊は頷き、彼女の肩を冷やさないよう、クローゼットからカシミアのストールを取り出して、彼女の肩にふわりと掛けた。
庭に出ると、湊がここ数週間で手入れを続けてきた草花が、午後の光を浴びてキラキラと輝いていた。
かつての荒れ果てた森のような庭は、今や、一歩足を踏み入れるだけで心が洗われるような「癒やしの庭」へと生まれ変わりつつある。
「……綺麗ね。……私、この家に住んで十年以上になるけれど、春がこんなに眩しいものだって、初めて知った気がするわ」
栞は、湊が植え替えたばかりのパンジーの前にしゃがみ込み、その花弁を愛おしそうに指先でなぞった。
彼女は、亡き夫との思い出の中に閉じこもることで、自分を守ろうとしてきた。だが、湊がもたらした「新しい日常」は、彼女の時間を再び動かし、未来という名の光を、この古い洋館に呼び込んでいた。
「久遠さん。……私、怖かったの。あなたがいつか、私の生活を完璧に整え終えて、満足してどこかへ行ってしまうんじゃないかって。……あなたは誠実だから、仕事が片付いたら、次の『困っている誰か』のところへ行ってしまうんじゃないかって」
栞は立ち上がり、湊の目を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつての孤独な未亡人ではなく、一人の女性としての切実な願いが宿っていた。
湊は、その言葉を喉の奥で咀嚼した。
かつての自分なら、「必要とされるならどこへでも行きます」と答えていたかもしれない。だが、今の彼には、もう行くべき場所など、世界のどこにも残っていない。
「……九条さん。僕は、以前の場所で、自分のすべてを使い果たしたつもりでここへ来ました。……でも、あなたに出会って、あなたに料理を作り、あなたの物語を支える中で、初めて『自分自身の幸せ』のために誰かに尽くしたいと思えたんです」
湊は、栞の細い手を、自らの大きな手で包み込んだ。
「僕は、どこにも行きません。……あなたの人生の物語が、最高のハッピーエンドを迎えるその瞬間まで、僕はあなたの隣で、今日のご飯を作り続けます。……これが、僕のたった一つの、わがままな一途さですから」
栞の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、湊の甲を濡らした。
それは、悲しみではなく、あまりに深い安堵と喜びの雫だった。
その頃、湊のスマートフォンには、弁護士からの短い通知が届いていた。
それは「元婚約者の法的和解(一方的な債務負担の確定)」を知らせるものだったが、湊はそれを開くことさえしなかった。
彼女がどれほど後悔しようと、彼女がどれほど惨めな現実に喘ごうと、今の湊の世界には、彼女が入り込む隙間は一ミリも存在しない。
かつて彼を「便利屋」として捨てた彼女は、自分がどれほど美しく、温かく、そして強固な「誠実さ」を自ら手放したのかを、一生をかけて呪い続けることになるだろう。
「……久遠さん、泣かせてごめんなさい。……でも、嬉しいの。私、世界で一番幸せな未亡人だわ」
「いいえ。……これからは、世界で一番幸せな『栞さん』になってください。……さあ、中に入りましょう。少し早いですが、今夜は、お祝いのシャンパンを開けましょうか」
二人の笑い声が、春の風に乗って洋館の隅々にまで広がっていく。
雨降って、地固まる。
過去という重い泥を洗い流した二人の足元は、もう誰にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、あなたが初めて作ってくれた、あのパスタにして。……今の私たちなら、もっと美味しく感じられる気がするから」
「ええ。……心を込めて、作りますね」
洋館に灯った明かりは、春の宵の中でも、ひときわ明るく輝き続けていた。




