第12話:一途な防波堤、あるいは静かなる独占
栞の新作がもたらした熱狂は、文芸界の枠を超えて、映像業界という巨大な渦を黒燿館へと引き寄せようとしていた。
午後の応接室には、担当編集の若林だけでなく、大手映画製作会社のプロデューサーと、今をときめく若手脚本家の二人が並んでいた。彼らは一様に、この古びた洋館の、塵一つ落ちていない完璧な清潔さと、漂う凛とした空気に圧倒されていた。
「九条先生、ぜひ! この『体温のあるミステリー』を、我が社で映画化させてください。主演には日本を代表する女優をキャスティングし、最高の布陣で臨みます!」
プロデューサーの熱弁が、静かな部屋に空白を切り裂くように響く。
栞は、湊が用意したばかりの自家製ジンジャーエールを一口含み、少しだけ困惑したように隣に立つ湊を見上げた。
彼女にとって、作品が評価されるのは喜ばしいことだが、それに付随する喧騒や、自分を「消費」しようとする大人たちの視線は、今なお深い恐怖の対象だった。
「……光栄なお話ですが、私は表に出るのが苦手なの。……静かに、この場所で、ただ物語を紡いでいたいだけ」
栞の細い指先が、グラスの表面に結露した滴をなぞる。
その僅かな震えを、湊は見逃さなかった。
彼は一歩前へ出ると、プロデューサーたちの視線を遮るように、静かに、だが揺るぎない威圧感を持って口を開いた。
「製作サイドの熱意は理解いたしました。……ですが、九条さんの第一の優先事項は、あくまで次作の執筆環境の維持にあります。映像化に伴う取材、プロモーション、ならびに脚本の監修において、彼女の日常生活に一分一秒の乱れも生じさせないことが、契約の絶対条件となりますが、よろしいでしょうか?」
湊の声は、冷静沈着そのものだった。
彼はSE時代、無理な納期を押し付けるベンダーに対し、完璧な理論武装でプロジェクトを守り抜いてきた。今の彼は、その全ての経験を「栞の平穏」という、世界で最も守るべきプログラムを維持するために注ぎ込んでいる。
「ええ、もちろんです! ですが、やはり原作者としての稼働は多少なりとも……」
「『多少』の定義が曖昧です。九条さんの食事、睡眠、そして精神的な静寂を妨げる全ての要素を、まずは私が査定させていただきます。……若林さん、今後の窓口はすべて私を通すように徹底してください」
若林は、湊の放つ「守護者」としての気迫に気圧され、ただ頷くことしかできなかった。
プロデューサーたちが、湊の提示した詳細すぎる「生活保護条項」のリストを抱えて、逃げるように帰路についた後。
重厚な玄関の扉が閉まると同時に、栞は湊の背中にしがみつくように、顔を埋めた。
「……ありがとう、久遠さん。あなたがいなかったら、私、またあの人たちのペースに飲み込まれて、ボロボロになっていたわ」
「……すみません。少し、言い過ぎたかもしれません。でも、あなたの場所を乱すものは、僕がすべて追い払うと決めていますから」
湊は振り返り、栞の少し乱れた髪を優しく整えた。
彼の指先は、外敵に向ける時とは打って変わって、壊れ物を扱うように繊細で温かかった。
「久遠さんは、本当に……私だけの騎士様ね。……ねえ、今夜は、誰の邪魔も入らない二人だけの時間がいいわ。……あなたが、私を甘やかしてくれる時間が」
栞の甘やかな願いに、湊は穏やかに微笑み、彼女の手を引いてキッチンへと向かった。
その頃。
湊のスマートフォンの通知センターには、弁護士からの「最終報告」が届いていた。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、闇金の取り立てから逃れるために夜逃げを繰り返した末、現在は地方の簡易宿泊所で、日雇いの重労働に従事しているとのこと。かつてあなたが彼女のために支払っていた、高級エステやブランド品とは無縁の、泥にまみれた生活です。彼女は「湊がどこかで私を待っているはずだ」という妄執を捨てられず、精神的にもかなり追い詰められているようですが……。……これで、法的な全ての清算は完了しました。二度と彼女が、あなたの人生の視界に入ることはないでしょう』
湊は、その文章を最後まで読むことさえしなかった。
彼は、スマートフォンの電源を落とし、棚の奥へと仕舞い込んだ。
かつての彼は、誰に対しても「誠実」であろうとして、その誠実さを安売りし、踏みにじられてきた。
だが、今は違う。
彼の誠実さは、たった一人の女性に捧げられる、唯一無二の「宝物」だ。
その宝物を知らずに捨てた彼女に、もはや慈悲をかける価値など、一滴の雫ほども残っていない。
「……九条さん、今夜は、あなたが以前美味しいと言ってくれた、あの濃厚なポタージュを作りましょうか。……ゆっくりと時間をかけて、心を込めて」
「ええ。……あなたの作るスープがあれば、私はどんな嵐の日も、怖くないわ」
外では、春の終わりの冷たい雨が降り始めていた。
だが、黒燿館のリビングには、暖炉の火のような温かな沈黙と、二人の重なり合う鼓動だけが響いていた。
雨降って、地固まる。
過去という重い鎖を完全に断ち切った二人の足元は、もう誰にも、どんな巨大な力にも崩せないほど、深く、そして甘やかに固まっていた。
「……ねえ、久遠さん。明日も、明後日も。……ずっと、隣にいてね」
「……ええ。……僕の命が続く限り、あなたの隣は、僕の指定席ですから」
洋館に灯った明かりは、雨夜の闇の中でも、二人だけの聖域を優しく照らし続けていた。




