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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第13話:一途な現在、あるいは亡霊の誘惑

 春の嵐が過ぎ去り、庭の緑が一段と色濃くなった午後のことだった。

 湊は、栞の執筆の合間に、彼女が愛用している万年筆のメンテナンスを行っていた。ペン先を丁寧に洗浄し、吸入器の動作を確認する。SE時代に精密機器を扱っていた指先は、今や栞の創作を支える最も繊細な道具の一つとなっていた。


 その時、庭の門扉が開く音が聞こえた。

 アポなしの来客は、若林を除けば珍しい。湊が玄関へ向かうと、そこには仕立ての良いチャコールグレーのスーツを着こなした、四十代半ばの男が立っていた。

 男は湊を一瞥すると、値踏みするような不躾な視線を投げかけてきた。


「……君が、噂の『管理人』かね。私は進藤しんどうという。亡くなった九条(栞の夫)の大学時代からの親友だ」


 進藤と名乗った男は、湊の返事も待たずに土足同然の勢いでエントランスへ踏み込んできた。

 湊は、その無作法な振る舞いに眉一つ動かさず、だが体を使って進藤の進路を静かに塞いだ。


「進藤様ですね。……あいにくですが、九条さんは現在、新作の構成を練る重要な時間に入っております。事前の約束のない面会はお断りしておりますが」

「はっ、堅苦しいことを言うな。私は彼女の亡き夫の代わりに来たんだ。栞も、夫の親友である私を無碍にはしないさ。……それとも何か? 君のような新参者が、彼女をこの家に閉じ込めているのかい?」


 進藤の言葉には、湊の「誠実さ」をあざ笑うような刺があった。

 彼は栞の弱みに付け込み、亡き夫という「過去の聖域」を利用して、現在の彼女の平穏を乱そうとしている。湊は、この男が発する特有の「搾取者の匂い」を敏感に感じ取った。かつての婚約者が、自分に向けていたあの歪んだ甘えと同じ匂いだ。


「久遠さん……? 何かあったの?」


 二階から、不安げな声を出しながら栞が降りてきた。

 彼女は進藤の姿を見るなり、あからさまに肩を震わせ、湊の背後に隠れるように身を寄せた。


「……進藤さん。どうして、ここに……」

「やあ、栞。久しぶりだね。君がこんな、どこの馬の骨とも知れない男を家に入れていると聞いて、心配で駆けつけたんだ。……亡くなった彼も、草葉の陰で泣いているよ。君を支えられるのは、彼をよく知る私だけだ」


 進藤は、同情を誘うような甘い声で栞に手を伸ばした。

 だが、その手は栞に届く前に、湊の鉄のような掌によって遮られた。


「……進藤様。九条さんが今、誰を必要としているかは、彼女自身が決めることです。亡くなった旦那様の名前を、ご自身の都合の良い『盾』に使うのは、おやめください」


 湊の声は、地を這うように低く、そして冷徹だった。

 彼は栞の震える手を、背後でそっと握りしめた。その温もりが彼女に伝わると、彼女の呼吸は次第に落ち着きを取り戻していく。


「……進藤さん、お引き取りください。私は今、久遠さんに救われて、新しい物語を書き始めています。……過去の彼を想う気持ちと、今、私の隣にいてくれる久遠さんへの信頼は、別のものです」


 栞の、凛とした拒絶。

 進藤は顔を歪め、湊を呪わしげに睨みつけた。


「……チッ。いい気なもんだな。……栞、後悔するぞ。そんな、家事しか能のない男に、君の才能が理解できるはずがない」


 進藤は吐き捨てるように言い残し、嵐のように去っていった。

 静寂が戻った玄関で、湊は深く息を吐き、栞の方を向き直った。


「……怖がらせて、すみません。……僕が、もう少し早く追い返すべきでした」

「いいえ……ありがとう、久遠さん。……私、進藤さんが怖かったの。あの人が来るたびに、私は『夫を失った可哀想な女』に引き戻されてしまうから。……でも、今の私は、あなたの作るご飯を食べて、あなたの言葉を信じている。……だから、もう大丈夫よ」


 栞は、湊の胸に顔を埋めた。

 湊は、その柔らかな重みを感じながら、彼女の背中を優しく撫でた。

 

 その頃、湊のスマートフォンの奥底では、弁護士からの「最終清算完了」の報告が静かに眠っていた。

 かつての婚約者が、借金の山に埋もれ、自分の名前すら忘れたいと願うほど惨めな底辺で足掻いている現実。

 湊にとって、それはもう、どこか遠い異国の出来事のような、無意味な文字列でしかなかった。

 

 彼が今、一途に守りたいのは、亡霊のような過去ではなく、温かな体温を持つ「今」という時間だ。


「……九条さん、お口直しに、冷たいレモンシャーベットを作りましょうか。……胸のつかえが、少しでも取れるように」

「ええ。……あなたの作る甘いもので、私をいっぱいにして。……そうすれば、どんな嫌な記憶も、上書きされていく気がするから」


 外では、春の陽光が洋館を優しく包み込んでいた。

 

 雨降って、地固まる。

 過去という亡霊を追い払い、二人の「現在」は、もう誰の介入も許さないほど、深く、そして強固に固まっていた。


「……ねえ、久遠さん。私、次の章は……二人が手を取り合って、光の中へ歩き出すシーンにしたいわ」

「ええ。……それが、この物語にふさわしい、最高の解答だと思いますよ」


 二人の影が、磨き上げられた廊下に重なり合い、一つになって伸びていた。


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