第14話:一途な休息、あるいは琥珀色の蜜月
黒燿館を包む空気は、これまでにないほど澄み渡っていた。
新作のプロットを完成させ、進藤という過去の亡霊を追い払った栞は、羽化を終えたばかりの蝶のように、静かな充足感の中にいた。
湊は、そんな彼女の心身を労うため、今日という日を「一切の執筆を禁じる完全休養日」と定義した。
「……九条さん、まだ眠っていますか?」
午前十時。湊は、あえてカーテンを閉め切ったままの主寝室に、静かに入室した。
ベッドの中央で、海のような黒髪を散らして眠る栞の姿がある。かつての彼女は、〆切に追われ、泥のように眠るしかなかった。だが今の眠りは、湊が整えた最高級のリネンと、計算された室温、そして何より「守られている」という安心感に裏打ちされた、深く、清らかなものだ。
「……ん……久遠、さん……?」
栞が、長い睫毛を震わせて薄目を開けた。
彼女は、枕元に置かれた湊の気配を感じ取ると、無意識にその大きな手のひらを求めて、自分の頬を寄せた。
「おはようございます。今日は約束通り、何もしなくていい日です。……着替えも、洗顔も、僕がお手伝いしますから。あなたはただ、僕に身を預けていてください」
湊の声は、蜂蜜のように甘く、そして力強い。
彼は、栞を抱き起こすと、彼女の細い体に柔らかなガウンを纏わせた。
かつての職場で、数字と論理の整合性ばかりを追い求めていた湊にとって、この「一人の女性を慈しむ」という行為は、人生で初めて見つけた、最も価値のある『最適化』だった。
リビングに降りると、そこには湊が数時間かけて準備した、贅を尽くしたブランチが並んでいた。
自家製のクロワッサンは、バターの香りが部屋中に広がり、外はサクサク、中は驚くほどしっとりと仕上がっている。さらに、地元の農家から仕入れた新鮮な果物の盛り合わせ、そして、栞の体調に合わせてハーブをブレンドした特製のオムレツ。
「……綺麗。……食べるのが、もったいないくらい」
栞は、湊にエスコートされて席に着いた。
彼女は一口食べるごとに、うっとりと目を閉じ、その幸福を全身で噛み締めた。
「久遠さん。……私、時々怖くなるの。……こんなに幸せでいいのかしら。……あなたが私に与えてくれるものが、あまりに大きすぎて。……私、あなたに何も返せていない気がして」
栞の言葉に、湊は紅茶を注ぐ手を止め、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「九条さん。……僕は、あなたがこうして美味しそうに笑ってくれるだけで、救われているんです。……以前の僕は、誰かに尽くすことを『義務』だと思っていました。でも、今は違います。……あなたが健やかで、あなたが書く物語が世界を彩る。その隣に僕がいる。……それだけで、僕の人生のバグ……いえ、欠けていたピースは、すべて埋まったんです」
湊は、彼女の唇の端についたパン屑を、親指で優しく拭い取った。
その指先から伝わる熱に、栞の頬が林檎のように赤く染まる。
その穏やかな時間の裏側で、湊のスマートフォンには、弁護士からの「最終事後報告書」が届いていた。
『すべての手続きが完了しました。元婚約者の女性は、借金の返済のために戸籍を離れ、遠くの街で名前を変えて生活することを選んだようです。彼女がかつて、あなたの誠実さを踏み台にして築こうとした『偽りの幸福』は、今や見る影もありません。……彼女は最後まで、『湊に謝りたい』と泣きついてきましたが、私は一蹴しました。……久遠様、これで本当の意味で、あなたの過去は浄化されました。……新しい、本当の人生をお楽しみください』
湊は、そのメッセージを一読すると、迷わずゴミ箱へと移動させた。
彼女がどこで、どんな名前で、どんな泥にまみれて生きていようと、今の湊には、一滴の興味もなかった。
かつての彼は、その女性を守るために命を削り、結果としてすべてを奪われた。
だが、その『地』が雨に洗われたおかげで、今の彼は、この洋館という名の、誰にも侵されない聖域に立っている。
午後のひととき。
二人は、庭の木陰に置かれたデイベッドに横たわり、一冊の本を交互に読み耽っていた。
栞の頭が、湊の胸元に預けられ、二人の鼓動が、静かな風の音に混じって共鳴する。
「……ねえ、久遠さん。私、次の物語のタイトルを決めたわ」
「……どんなタイトルですか?」
「『一途な守護者』よ。……孤独な魔女が、一人の不器用な騎士に出会って、世界を愛せるようになる物語。……結末は、もちろん、最高のハッピーエンド」
栞は、湊の首筋に腕を回し、そっと囁いた。
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、もう誰にも崩せないほど、深く、そして琥珀色に固まっていた。
「……九条さん、少し肌寒くなってきましたね。中に入って、温かいココアでも淹れましょうか」
「ええ。……あなたの隣なら、どこだって、一番温かな場所だわ」
洋館に灯った明かりは、夕闇の中でも、二人だけの永遠を優しく照らし続けていた。




