第15話:一途な審美眼、あるいは招かれざる光
黒燿館の重厚な門扉の前に、数台の送迎車が列をなした。
新作『体温のあるミステリー』の映画化において、主演を務める若手実力派俳優の瀬名と、そのマネージャー、そして宣伝スタッフたちが挨拶に訪れたのだ。
湊は、彼らを迎えるためにエントランスの床を一分の隙もなく磨き上げ、応接室には彼らの緊張を解きほぐすための、自家製ハーブの香りを漂わせていた。
「失礼します。九条先生、本日はお時間をいただきありがとうございます!」
部屋に入ってきた瀬名は、テレビで見せる爽やかな笑顔を振りまきながら、栞に深々と頭を下げた。だが、その視線はすぐに、栞の傍らに微動だにせず控える湊へと向けられた。
湊は、仕立ての良いエプロンを身に纏い、穏やかながらも、入念に相手の「害意」や「無作法」をスキャンするような鋭い眼差しを湛えていた。
「九条さんの生活管理を務めております、久遠です。……本日はようこそ。……瀬名様、お飲み物はカフェインレスの紅茶でよろしいでしょうか? 本日のあなたの顔色を拝見するに、少し胃腸がお疲れのご様子ですので」
湊の言葉に、瀬名は虚を突かれたように目を丸くした。
「え……あ、はい。実は昨夜までロケが長引いて……。……どうしてわかったんですか?」
「表情の僅かな強張りと、肌の乾燥具合を見れば推測できます。……九条さんの作品を演じる方に、万全の体調で臨んでいただくのも、私の仕事の一部ですので」
湊は、音もなく紅茶をサーブした。
その所作の美しさと、相手のコンディションを瞬時に見抜く観察眼。
俳優やスタッフたちは、この「ただの使用人」だと思っていた男が、実はこの屋敷の『心臓』であることを直感し、自然と背筋を伸ばした。
「……先生。この方は、一体……?」
「ふふ。私の大切な『守り人』よ。……彼がいなければ、私は今頃、物語を書くことさえ忘れていたわ」
栞は、湊が淹れた紅茶の香りを楽しみながら、誇らしげに微笑んだ。
彼女は、華やかな芸能界の住人たちを前にしても、以前のような怯えを見せなかった。隣に湊がいる。その事実が、彼女に「作家としての威厳」を与えていた。
打ち合わせが順調に進み、瀬名たちが湊の用意した特製の軽食に舌鼓を打っている最中のことだ。
湊のポケットの中で、スマートフォンが一度だけ、短く震えた。
それは、弁護士からの「付随報告」だった。
湊は、席を外すことなく、手元で内容を流し読みした。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、生活の困窮からついに万引きで補導されたようです。彼女は警察で「自分はかつて、有能なエンジニアの妻になるはずだった。自分にはこんな生活は似合わない」と支離滅裂な主張を繰り返しているとのこと。……彼女は、自分が失ったものの正体が、金や地位ではなく、あなたの『無私の献身』であったことに、ようやく気づき始めているようです。……まあ、手遅れという言葉すら贅沢な状況ですが』
湊は、その文章を読んでも、眉一つ動かさなかった。
かつての彼は、彼女の僅かな体調の変化に右往左往し、自分の睡眠を削ってまで彼女に尽くしてきた。だが、その誠実さを足蹴にした彼女の末路に、今の彼は、一滴の同情も、一ミリの感慨も抱かなかった。
「久遠さん? 何か問題でもあったかしら?」
「いいえ。……古い記録が、完全に風化しただけです。……それより、瀬名様。こちらのスコーンには、疲労回復に効く自家製のジャムを添えてあります。ぜひ、召し上がってください」
湊は、スマートフォンの画面を永久に閉じ、そのままポケットの奥へと沈めた。
彼が今、一途に捧げているのは、この洋館に集う人々の「善意」と、何より栞の「平穏」だけだ。
かつての婚約者が、泥沼の中で自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。
打ち合わせが終わり、瀬名たちが「あんなに居心地の良い場所は初めてだ」と感嘆しながら帰路についた後。
洋館には、再び二人だけの穏やかな夜が訪れた。
「……お疲れ様、久遠さん。……あなたのせいで、主演の彼、私のことよりあなたの料理に夢中になっちゃったじゃない」
「……すみません。……九条さんの作品を最高の形で届けるために、現場の士気を高めておきたかっただけですよ」
湊が少し照れくさそうに笑うと、栞はその腕をぎゅっと抱きしめた。
「……いいのよ。……あなたが、私のためにそこまでしてくれるのが、何より嬉しいの。……ねえ、今夜は、誰の目も気にしないで、ゆっくり二人で過ごしましょう」
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ雨のおかげで、もう誰にも、どんな眩しい光にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
「……九条さん、明日の朝食は、あなたが新作のイメージを膨らませやすいように、少し趣向を凝らしたメニューにしましょうか」
「ええ。……あなたの作る朝食から始まる一日が、今の私の、たった一つの『真実』よ」
洋館に灯った明かりは、春の夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。




