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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第16話:一途な鉄壁、あるいは聖域の守護

 映画化の制作発表が行われた翌日、黒燿館の周囲には、普段の静寂を切り裂くような喧騒が漂っていた。

 公式発表された『九条栞、復活』のニュース。そして、その裏側で囁かれる「完璧な私生活の管理者」の存在。

 好奇の目に晒されることを何より嫌う栞は、二階の書斎で、カーテンを閉め切ったまま震えていた。


「……久遠さん。私、やっぱり外が怖いわ。……みんな、私の作品じゃなくて、私の『生活』を覗き見ようとしているみたいで」


 栞は、湊が運んできた温かなホットチョコレートのカップを、両手で包み込むようにして握りしめた。

 

「大丈夫ですよ、九条さん。……外のノイズは、僕がすべて遮断しました。……あなたがこの部屋で感じるのは、紙とインクの匂い、そして僕が淹れたお茶の香りだけです」


 湊の声は、凪いだ海のように穏やかだった。

 彼は、既にSE時代の伝を辿り、屋敷の周囲に高度なセキュリティシステムを構築し終えていた。さらに、強引な取材を試みる週刊誌に対しては、弁護士を通じた「法的措置の事前通告」という名の鉄槌を、一分の隙もなく打ち込んでいた。

 

 彼にとって、この洋館を「デバッグ」し、最適な環境に保つことは、もはや家事の延長線上にあった。

 大切な人の平穏を乱すバグは、その発生源ごと、徹底的に処理する。それが、愚直なまでに一途な湊が辿り着いた、新しい「誠実さ」の形だった。


「……お疲れ様、久遠さん。……あなたがいなかったら、私、またあの暗い海の底に沈んでいたわ」


 栞は、湊の腰にそっと手を回し、その広い背中に顔を預けた。

 

「……沈ませません。……僕が、あなたのいかりになりますから」


 湊が栞を落ち着かせ、再びキッチンへと戻った時のことだ。

 ポケットの中で、スマートフォンが一度だけ、短く震えた。

 それは、弁護士からの「最終事後報告・補足」だった。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、ネットニュースで「九条栞の奇跡の復活を支える謎の守護者」の記事を見かけたようです。……そこに写り込んだ、僅かながらのあなたの後ろ姿。彼女はそれを一目であなただと確信し、警察の取調室で「あれは私の婚約者だった人だ! 彼を呼べば、すべてを解決してくれる!」と泣き叫び、暴れたとのこと。……皮肉なものですね。彼女がゴミのように捨てたあなたの『一途な誠実さ』が、今や日本中が羨むような『至宝』として、別の女性を輝かせている。……彼女には、もう一生、あなたに触れる資格も、その名を呼ぶ権利も残されていません』


 湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく「データの完全消去」を実行した。

 

 かつての彼は、彼女が泣けば自分の心を削ってでも笑顔にしようとした。

 だが、今の彼には、その涙がどれほど真実であろうと、一滴の価値も、一ミリの感慨も湧かなかった。

 

 彼が今、一途に注いでいるのは、この屋敷の静寂と、栞が綴る「新しい物語」の行く末だけだ。

 かつての婚約者が、自らの愚かさという檻の中で、一生をかけて後悔の炎に焼かれようとも、それは湊の人生において、もはや背景のノイズにすらならない。

 

「……九条さん、夕食の準備ができましたよ。……今夜は、あなたが以前『また食べたい』と言ってくれた、あの特製ポトフです。……野菜の甘みが、一番引き出されるまで、じっくり煮込みました」


 湊の声に、栞が柔らかな足取りで階段を降りてくる。

 

「ええ。……楽しみだわ。……あなたの作るご飯を食べている時が、今の私の、たった一つの『真実』よ」


 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の足元は、降り注いだ雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い悪意にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。

 

「……九条さん、明日の朝食は、あなたが新作のラストシーンを書き上げられるよう、とびきり活力が湧くメニューにしましょうか」

「ええ。……あなたがいれば、私はどんな高い壁も、言葉で越えていける気がするわ」


 洋館に灯った明かりは、春の宵の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。


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