第17話:一途な墓標、あるいは光差す雨上がり
五月の柔らかな風が、都心から少し離れた高台にある霊園を吹き抜けていた。
若葉の香りが混じる空気は、かつての冬の湿り気を完全に払い落とし、どこまでも透き通っている。今日は、栞の亡き夫の月命日。湊は、数日前から準備していた「手作りの供花」と、彼が生前に愛したという銘柄の古酒を携え、栞の隣を歩いていた。
栞は、湊が彼女の肌の色に合わせて選んだ、落ち着いた紺色のシルクワンピースに身を包んでいた。かつての彼女なら、喪に服すような暗い色ばかりを選んでいたはずだが、今の彼女には、湊が整えた「健康的な美しさ」が宿っている。その足取りは、一段一段の石段を踏みしめるたびに、過去の重みを脱ぎ捨てていくかのように軽やかだった。
「……久遠さん、ありがとう。一人でここに来る時は、いつも足がすくんで、墓石の前に立つだけで過去の罪悪感に押し潰されそうになっていたの。でも、今日は……。あなたの隣を歩いていると、空がとても、眩しいくらいに青く見えるわ」
栞は、湊の差し出した腕をぎゅっと抱きしめた。その指先に込められた微かな力は、依存ではなく、確かな信頼の証だった。湊は、彼女の歩調に合わせながら、周囲の景色を穏やかに眺めた。
墓前に着くと、湊はまず、持参した道具を取り出した。
彼は、亡き夫に対しても、一分の隙もない敬意を払っていた。手際よく周囲の雑草を抜き、墓石の細かな溝に溜まった砂埃を、専用のブラシで丁寧にかき出す。SE時代、数万行のコードの中から一つのバグも見逃さなかったあの集中力が、今は「大切な人の過去を清める」という行為に注がれていた。
「……九条さん、お参りを。僕は、少し離れたところで待っています」
「いいえ……。久遠さん、隣にいて。彼にも、あなたのことをちゃんと紹介したいの。私が今、どれほど幸せで、誰に、どんなに誠実な心に救われたのかを。彼もきっと、私のこんな顔を見るのを待っていたはずだから」
二人は並んで手を合わせた。
線香の煙が真っ直ぐに青空へと吸い込まれていく。
栞の頬を、一筋の涙が伝った。だがそれは、かつての絶望の淵で流した泥のような涙ではなく、感謝と決別の、水晶のように温かな雫だった。
その静寂を破るように、湊のポケットの中で、スマートフォンが一度だけ、短く震えた。
彼は、栞の祈りを邪魔しないよう、音を立てずにそれを取り出し、画面を伏せたまま内容を一瞥した。弁護士からの、事務的な「最終清算」の報告だった。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、ついに実家の不動産さえも借金の形に取られ、親族一同、夜逃げ同然に姿を消したようです。彼女は最後に「湊がかつて買ってくれた婚約指輪」を質に入れようとしましたが、鑑定の結果、彼女が勝手に偽物とすり替えていたことが発覚し、二重の恥をかいたとのこと。……彼女は、あなたがかつて捧げた『本物の価値』を、自らの手で汚し、失ったことに、一生気づくことはないでしょう。彼女は今、雨漏りのする安宿で、あなたの名前を呼びながら、二度と戻らない温もりを追いかけているようです。……久遠様、これで本当に、墓前の報告にふさわしい、清らかな身となりましたね』
湊は、その画面を墓石の陰で一読すると、一瞬だけ瞳を閉じ、それから一切の迷いなくデータを消去した。
かつての彼は、彼女の嘘さえも「愛」だと信じようとして、自分自身の心を欺き続けてきた。彼女のわがままに振り回されることを、自分の存在価値だと思い込んでいた。だが、今の彼には、その愚かな過去に一秒の未練も、一滴の憎しみも湧かなかった。
憎しみとは、まだ相手に価値を見出している証拠だ。
今の湊にとって、元婚約者は、既に自分の人生からデバッグされた、存在しないはずのバグの一部でしかなかった。
彼が今、一途に注いでいるのは、隣で祈りを捧げる栞の、その透き通るような横顔だけだ。かつての婚約者が、泥沼の中で自分の名前を呪おうとも、その声は、この澄み渡った高台の空に届くことはない。
「……久遠さん。私、もう大丈夫よ。彼に言ってきたわ。『私は今、世界で一番誠実な人に守られているから、安心してね』って。……そして、『さようなら。あなたの愛した私も、今の私のことも、全部この人が連れて行ってくれるわ』って」
栞は、晴れやかな、少女のような笑顔で湊を見上げた。
湊は、彼女の手を優しく、だが力強く握り返した。
「……ええ。僕が、あなたの未来を、これから一生かけて管理させていただきます。……あなたが二度と、孤独な雨に濡れることがないように」
霊園を後にする二人の背中に、初夏の眩しい光が降り注いでいた。
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ雨のおかげで、もう誰にも、どんな悲しい過去にも、そしてどんな醜い悪意にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
「……九条さん、帰りに少し遠回りして、市場に寄りましょうか。今夜は、あなたが以前『食べてみたい』と言っていた、あの季節の創作和食を作りましょう。あなたの新しい物語の、門出を祝して。とっておきの出汁を用意してありますから」
「ええ! あなたの作るご飯があれば、私はどんな遠い場所へも、言葉の翼で飛んでいける気がするわ。……ふふ、お腹が空いちゃった」
洋館に帰る二人の影は、夕日に長く伸び、一つに重なり合っていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「幸福」という名の駅に向かって、静かに、そして力強く動き始めていた。
湊は、横を歩く彼女の温もりを感じながら、確信していた。
この「誠実さ」は、もう二度と、誰にも奪わせはしないと。




