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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第18話:一途な栄冠、あるいは聖域の誇り

 初夏の陽光が、黒燿館の重厚なレンガ壁を黄金色に染め上げる午後のことだった。

 リビングのソファに腰掛けた担当編集の若林は、かつてないほど激しく膝を揺らし、手にしたスマートフォンの画面を食い入るように見つめていた。その額には、冷房が効いているはずの室内で、じわりと汗が滲んでいる。


「……先生、来ました。……来ましたよ!」


 若林が叫ぶように声を上げた。

 その手元には、文芸振興会から届いた公式の通知。

 栞の新作『一途な守護者』が、国内最高峰の文学賞である『日本文芸大賞』の最終候補に選出されたという報せだった。


「……本当なの? 若林君」


 栞は、湊が用意したばかりの、自家製ミントを添えた冷たいレモネードを一口含み、少しだけ戸惑ったように目を瞬かせた。

 彼女にとって、書くことは生きることそのものであり、賞という「評価」は、かつては自分を縛る鎖でしかなかった。だが今の彼女には、その報せを手放しで喜んでくれる「家族」がいる。


「おめでとうございます、九条さん。……あなたの言葉が、正しく世界に届いた証拠ですね」


 キッチンのカウンター越しに、湊が穏やかに、だが心の底からの祝福を込めて微笑んだ。

 彼は、若林が狂喜乱舞するのを邪魔しないよう、あえて一歩引いた場所で控えていたが、その瞳には、自分が丹精込めて整えた「生活」という土壌から、最高に美しい花が咲いたことへの深い自負が宿っていた。


「久遠さん! 先生だけじゃなくて、あなたもですよ! 審査員たちが口を揃えて言っているんです。『今回の九条栞には、これまでにない確かな体温と、揺るぎない安心感がある』って! これは、あなたが先生の横で、毎日毎日、温かいスープを作り続けた成果なんです!」


 若林は湊に歩み寄り、その肩を壊さんばかりの勢いで揺さぶった。

 湊は困ったように笑いながら、若林の空になったグラスに、冷たいお代わりを注ぎ足した。


「僕は、彼女が物語の世界で迷子にならないよう、足元を照らしていただけです。……ペンを握ったのは、彼女自身ですから」


 その謙虚な、だが一途な献身。

 若林は、湊の淹れたレモネードを飲み干し、清涼感とともに押し寄せる感動に鼻の奥を熱くした。この男がいなければ、この名作は生まれなかった。それは、担当編集である彼が誰よりも痛感している真実だった。


 授賞式は一ヶ月後。会場は都内の格式高いホテルで行われる。

 栞は、これまでそういった華やかな舞台を「体調不良」を理由に避けてきた。人前に出ることへの恐怖。自分を値踏みする視線。だが、今回は違った。


「……久遠さん。私、行きたいわ。……あなたが選んでくれたドレスを着て、あなたの守ってくれたこの心で、授賞式の壇上に立ちたいの」


 栞は湊の手をぎゅっと握りしめた。

 湊は、その震える指先に、かつての「逃避」ではない、新しい「勇気」が宿っていることを感じ取り、力強く頷いた。


「承知いたしました。……あなたが世界で一番美しく、誇り高く見えるように、僕がすべてをプロデュースさせていただきます」


 それからの湊の動きは、SE時代のプロジェクト管理をも凌駕する、徹底した「主夫の戦い」だった。

 栞の肌の状態を完璧に仕上げるための特別献立。

 彼女の歩き方を美しく、かつ疲れさせないための靴の選定。

 さらには、会場の動線や照明の角度、想定される記者たちの質問への対策まで、彼は「栞の平穏」を守るためのデバッグを、一分の隙もなく進めていった。


 作業の合間、湊のスマートフォンには、弁護士からの「付随報告」が届いていた。

 彼は、栞が二階で衣装のフィッティングをしている隙に、その画面を流し読みした。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、ついにネットカフェを転々とする生活も行き詰まり、現在は地方の加工工場で、住み込みの非正規雇用として働いているようです。……皮肉なことに、その工場の休憩室のテレビで、彼女はあなたの姿を見かけたようです。……日本文芸大賞のノミネートニュース。先生の傍らで、完璧なエスコートを見せるあなたの後ろ姿。……彼女は同僚たちに「あの人は私の婚約者だったの! 私があの人を育てたのよ!」と泣き叫んだそうですが、誰一人として信じる者はおらず、かえって精神的な異常を疑われ、居場所を失いつつあるとのこと。……彼女は、自分がどれほど美しく、温かく、そして今や手の届かない高みへ行ってしまった「誠実さ」を自ら捨てたのか、その残酷な対比に、毎日身を焼かれているようです』


 湊は、その文章を最後まで読むと、一切の感慨を持たずに「完全消去」のボタンを押した。

 

 かつての彼は、その女性が「寂しい」と言えば、どんな無理をしてでも駆けつけた。

 だが、今の彼には、その孤独がどれほど深かろうと、自分の人生において一滴の価値も持たない。

 

 彼が今、一途に捧げているのは、この洋館の静寂と、栞が纏うドレスの僅かな皺を直すこと。

 かつての婚約者が、泥沼の中で自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。

 

「……久遠さん、見て。……どうかしら?」


 二階から降りてきた栞は、湊が選んだ「真夜中の星空」のような深い紺色のドレスを纏っていた。

 その美しさは、もはや「未亡人」という言葉では縛れない、一人の自立した女性の輝きに満ちていた。

 

「……素晴らしいです、栞さん。……これなら、世界中の誰もが、あなたという物語に恋をすることでしょう」


 湊は、恭しく跪き、彼女の靴のストラップを丁寧に調整した。

 

 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の足元は、降り注いだ雨のおかげで、もう誰にも、どんな眩しい光にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。

 

「……さあ、夕食にしましょう。今夜は、授賞式に向けて体調を整えるための、最高の一皿を用意してあります」

「ええ。……あなたの作るご飯を食べている時が、私の人生で一番、誇らしい時間よ」


 洋館に灯った明かりは、授賞式へと続く希望の道のように、夜の帳の中でひときわ強く輝き続けていた。


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