第19話:一途な壇上、あるいは聖域の証明
都内でも屈指の格式を誇る、帝国ホテルの大宴会場。
天井の巨大なシャンデリアが、集まった報道陣のフラッシュと混じり合い、目が眩むほどの光の渦を作り出していた。日本文芸大賞、授賞式。文壇の重鎮や著名な俳優、そして多くのカメラが、一人の「復活した天才」の登場を今か今かと待ちわびていた。
その舞台裏、静かな控室で、湊は栞の背後に立っていた。
鏡の中に映るのは、湊が数ヶ月かけて磨き上げ、慈しんできた、この世で最も美しい「作品」としての九条栞の姿だ。
真夜中の星空を思わせる深い紺色のドレス。そのデコルテには、湊が彼女の瞳の色に合わせて選んだ一粒のサファイアが、静かに、だが確かな知性を湛えて輝いている。
「……久遠さん。手、握っていてもいいかしら」
栞の声が、僅かに震えていた。
かつて孤独な洋館で、誰にも見られず、誰にも望まれず、ただ乾いたパンを齧りながら原稿用紙を埋めていた彼女にとって、この光の海はあまりに眩しく、恐ろしい。
湊は、迷うことなく彼女の細い手を、自らの大きな掌で包み込んだ。
「大丈夫ですよ、栞さん。……あなたが紡いできた言葉は、誰にも汚せません。そして、その言葉を守ってきたのは、僕です。……僕が、あなたのすぐ後ろにいますから」
湊の声は、凪いだ海のように深く、そして揺るぎない。
彼はこの日のために、栞の体調を分刻みで管理し、想定される全てのトラブルを排除してきた。SE時代、数百万人が利用するシステムのリリースを見守った時よりも、今の彼の集中力は研ぎ澄まされている。
扉が開く。若林が、感動で目を真っ赤にしながら合図を送った。
「九条先生……。行きましょう。日本中が、あなたの物語を待っています」
栞は深く息を吐き、湊の手を一度強く握り返すと、前を向いた。
湊は一歩下がり、彼女のエスコート役として、その影に徹するように付き従う。
会場に栞が現れた瞬間、怒涛のようなフラッシュが焚かれ、どよめきが走った。
そこには、かつての「悲劇の未亡人」の面影はどこにもなかった。凛として、背筋を伸ばし、一歩一歩を確信を持って踏みしめる一人の女性。
その傍らで、完璧な所作と、一切の隙を見せない鋭い眼差しで彼女を護衛する湊の姿に、報道陣の視線が釘付けになった。
『あの男性は誰だ?』『九条栞を蘇らせた、伝説のマネージャーか?』
囁き声が波紋のように広がる中、栞は壇上へと上がり、マイクの前に立った。
彼女は、何百というカメラのレンズの向こう側ではなく、ただ一人、客席の最前列で自分を見つめる湊の瞳だけを見つめていた。
「……私は、長い間、暗い雨の中にいました。……一人で書くことが、私の唯一の呼吸法だと思っていました。……でも、ある雨の日、一人の人が私の扉を叩いてくれました。……彼が作ってくれた一杯の温かいスープが、私の凍てついた言葉に、初めて『体温』をくれたんです」
栞の声が、会場の隅々まで染み渡っていく。
「この賞は、私一人のものではありません。……私の毎日を整え、私に『生きる喜び』を教えてくれた、世界で一番誠実な私の守り人に、捧げたいと思います」
栞が湊に向かって、深々と頭を下げる。
その瞬間、会場は静まり返り、次の瞬間、割れんばかりの拍手が巻き起こった。
湊は、静かに、だが誇らしげに胸を張り、彼女の栄光をその全身で受け止めた。
その華やかな熱狂の裏側で、湊のポケットの中でスマートフォンが微かに震えた。
それは、弁護士からの「最終報告・補足(完結)」だった。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在、地方の共同生活施設にて療養中。……彼女は、テレビで放映されているこの授賞式の生中継を、ぼんやりとした瞳で眺めているそうです。……「あの人は、私のものだった。……あの誠実さは、私のためにあったはずなのに」と、うわごとのように繰り返しながら。……彼女は今、自分が捨てたものの正体が、金や家ではなく、自分を無条件に肯定し続けてくれた『本物の愛』であったことを、骨の髄まで理解したようです。……ですが、あなたが彼女の名を呼ぶことは、もう二度とありません。……おめでとうございます、久遠様。……あなたは、最高の場所へ辿り着きましたね』
湊は、そのメッセージを最後まで読むと、一切の迷いなく、その「過去」をスマートフォンの奥底へと永久にパージ(排除)した。
かつての彼は、彼女が「寂しい」と言えば、自分の人生を差し出してでも応えようとした。
だが、今の彼にとって、彼女の絶望も、彼女の涙も、既に自分の人生とは無関係な「背景のノイズ」ですらなかった。
彼が今、一途に捧げているのは、壇上で輝く栞の、その誇らしい姿だけだ。
かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど後悔に身を焼かれようとも、その熱が湊の指先を温めることは、もう二度とない。
授賞式が終わり、喧騒を離れてホテルの屋上庭園へ出た二人。
夜景を背景に、栞は受賞した黄金のトロフィーを湊の手に預けた。
「……受け取って、久遠さん。……これは、あなたが私にくれた『日常』の結果だわ。……あなたが私の主夫になってくれなかったら、この重みを感じることは、一生なかった」
湊は、そのずっしりと重いトロフィーを見つめ、それから栞を優しく、だが壊れ物を扱うように強く抱きしめた。
「……おめでとうございます、栞さん。……でも、僕にとっての最高の賞は、これではありません。……明日の朝、あなたが笑顔で『お腹が空いたわ』と言ってくれること。……それだけが、僕の一途な願いなんです」
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ雨のおかげで、もう誰にも、どんな巨大な力にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
「……久遠さん、帰ったら、あのパスタを作ってくれる?」
「ええ。……世界で一番美味しいパスタを、あなたの為だけに」
夜の静寂の中に、二人の幸せそうな笑い声が溶けていく。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本当の「家族」という、眩いばかりの光の中へと踏み出したのだ。




