第20話:一途な帰還、あるいは黄金の静寂
深夜。都心の喧騒を置き去りにして、タクシーが黒燿館の重厚な門扉の前に滑り込んだ。
車を降りると、そこには昼間の熱狂が嘘のような、凛とした静寂が漂っている。五月の夜風が、正装を解いたばかりの湊と栞の頬を優しく撫でた。
「……ふふ。ようやく、私たちの家に帰ってきたわね。久遠さん」
栞は、授賞式の余韻で少し上気した顔を上げ、深い紺色のドレスの裾を揺らしながら門を潜った。
湊は、彼女の手を引くエスコートの形を崩さないまま、ゆっくりと、だが確実な足取りで屋敷へと導いた。
彼にとって、この門の内側こそが、世界で唯一デバッグし終えた、完璧な「正常系」の領域だった。
玄関の扉を開けると、昼間に湊が仕掛けておいたアロマの香りが、二人を包み込んだ。
湊は栞をソファに座らせ、まず彼女の足を締め付けていたハイヒールを、恭しく膝をついて脱がせた。
「お疲れ様でした、栞さん。……日本一の作家の足を疲れさせるわけにはいきませんから。今夜は、特別に足を温めるハーブバスを用意してあります」
湊の声は、凪いだ湖面のように穏やかで、深い。
彼は、栞が着替えている間に、手際よくキッチンの火を点けた。
深夜の胃に優しい、鶏のささ身とセロリの澄んだスープ。
その時、湊のポケットの中でスマートフォンが、最後の一振りを伝えてきた。
弁護士からの、簡潔な、だが決定的な『最終清算・完了』の通知だった。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、借金取りの追及を逃れるため、すべての身分証を破棄し、人知れず地方の山間部にある農村へ、住み込みの働き手として送り出されました。……彼女は最後まで「湊なら、私のこの惨状を見れば、絶対に黙っていられないはず。彼はそういう、バカ正直な男だから」と、あなたの誠実さを最後の希望にしていたようですが。……私は一言、「彼はもう、あなたの名前さえ忘れていますよ」と告げました。……彼女は、自分がどれほど美しく、温かく、そして今や別の女性の「命」を支えているあなたの『誠実さ』を自ら手放したのか、その地獄のような喪失感と共に、一生を終えることになるでしょう。……これにて、私の任務はすべて完了いたしました』
湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく「データの完全消去」を実行し、さらにその弁護士の連絡先さえも、アドレス帳から削除した。
かつての彼は、彼女が「助けて」と言えば、自分の人生が破綻してでも手を差し伸べた。
だが、今の彼にとって、彼女の絶望も、彼女の末路も、既に自分の人生の「仕様」には含まれていない。
湊はスマートフォンの電源を落とし、棚の奥へと仕舞い込んだ。
彼が今、一途に捧げているのは、着替えを終えて、少し恥ずかしそうにリビングへ戻ってきた栞の、その柔らかな微笑みだけだ。
「……久遠さん。見て、このトロフィー。……まだ、夢みたいだわ」
栞は、テーブルに置かれた黄金のトロフィーを愛おしそうになぞった。
「夢ではありませんよ。……あなたの努力と、僕の管理が噛み合った、当然の結果です。……さあ、スープが温かいうちに。……今日は、これ以上の言葉は必要ありません」
湊は、スープのボウルを栞の前に置いた。
栞は一口含み、その温かさに瞳を潤ませた。
「……おいしい。……やっぱり、あなたの作るものが、世界で一番だわ。……ねえ、久遠さん。……私、さっきの壇上で言ったこと、本気よ。……私はもう、あなたなしでは、物語を一文字も書けない。……あなたのいない生活なんて、私にはもう、想像もつかないの」
栞は立ち上がり、湊の元へと歩み寄った。
彼女は、湊の首筋に細い腕を回し、その胸に顔を埋めた。
「……契約を、変えましょう。……あなたは私の『使用人』でも、『管理職』でもない。……私の人生という物語の、共著者になってほしいの。……法的にも、精神的にも、永遠に」
湊は、栞の細い背中に手を回し、壊れ物を扱うように、だが力強く抱きしめた。
「……承知いたしました。……僕も、以前の場所で『誠実さ』という名の武器をすべて使い果たしたつもりでしたが。……あなたの隣にいるためなら、いくらでも新しく、一途な誠実さを生み出せそうです」
湊は、栞の額に優しく唇を寄せた。
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
窓の外では、春の終わりの冷たい雨が降り始めていた。
だが、黒燿館のリビングには、暖炉の火のような温かな沈黙と、二人の重なり合う鼓動だけが響いていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、完全に踏み出したのだ。
「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」
「……あなたが、一番笑顔になれるものです。……楽しみにしていてください、栞さん」
洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの永遠を優しく、そして強く照らし続けていた。




