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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第21話:一途な伴走、あるいは新章の幕開け

 日本文芸大賞の受賞という狂騒が、黒燿館の周囲を一度は激しく揺さぶった。だが、その嵐が過ぎ去った後の屋敷には、以前のような冷たい静寂ではなく、どこか凛としていながらも、春の陽だまりのような柔らかな活気が満ちていた。

 湊は、キッチンの広大な大理石のカウンタートップにタブレットを広げ、指先一つで栞の次なるプロジェクト――『一途な守護者』の映画化に関する膨大なスケジュール表を再構築していた。


 SE時代、数百万人が利用するシステムのバグを深夜まで追い続け、複雑に絡み合った工程を論理的に解きほぐしてきた彼の知見は、今や「一人の作家の才能を最大化するための武器」へと完全に昇華されている。製作会社からの無茶な要望、メディアからの取材依頼、そして栞の精神的なバイオリズム。それらすべてを一つの巨大なガントチャートとして捉え、彼女の「平穏」という名のメインプロセスを一度も止めないよう、彼は静かに、だが徹底的に最適化を繰り返していた。


「……九条さん、お待たせしました。午後のティータイムです。今日は、新作のプロット作業で酷使した脳を休めていただくために、ローズマリーを練り込んだ特製のスコーンと、自家製のベリージャムを用意しましたよ」


 湊が書斎の重厚なマホガニーの扉を静かに開けると、そこには窓からの逆光を背に、猛然とペンを走らせる栞の姿があった。

 彼女は湊の声を聞くと、憑き物が落ちたような晴れやかな顔で顔を上げ、椅子をくるりと回した。


「ありがとう、久遠さん。……あなたがスケジュールを整えてくれてから、物語が溢れ出すように止まらないの。以前は、書くことが自分を削り取る儀式のようだったけれど……。今は、書けば書くほど、心の中に新しい光が満ちていく気がするわ」


 栞は湊が差し出した紅茶の香りを深く吸い込み、うっとりと目を細めた。

 かつての彼女にとって、執筆は「孤独な絶望との戦い」だった。だが今は、背後に湊という名の絶対的な「盾」がいる。どんな無理難題も、どんな失礼な外部の接触も、彼が事前に察知して、彼女の耳に届く前に丁重にパージしてくれる。その絶対的な安心感が、彼女の筆にこれまでにない自由と、瑞々しい体温を与えていた。


「それは、九条さんの内側にある物語が、ようやく枷を外されたからです。僕はただ、あなたが走りやすいように、足元の石ころを退けているだけですから」


 湊は穏やかに笑い、彼女の肩を優しく揉みほぐした。

 指先から伝わる彼女の筋肉の強張り。それを一つずつ丁寧に解いていく作業は、湊にとっても、自らの誠実さが誰かの「力」になっていることを実感できる、至福の時間だった。


 その穏やかな時間の裏側で、湊のスマートフォンの通知センターが一度だけ、短く震えた。

 それは、弁護士からの「最終報告・補足」――もはや湊にとっては、処理済みのゴミ箱にあるログファイルのようなものだったが、彼は栞が紅茶を楽しんでいる隙に、無機質な画面を流し読みした。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は地方の加工工場で、名前も隠して働き詰めの毎日を送っているようです。かつてあなたが彼女のために支払っていた、高級エステやブランド品とは無縁の、泥にまみれた生活。……彼女は、休憩室の古いテレビで放映された「九条栞の受賞パーティー」のニュースを見かけたとのこと。……そこに写り込んだ、先生を甲斐甲斐しく支え、誰よりも誇らしげに、そして凛々しく微笑むあなたの姿。……彼女は同僚たちに「あの人は私のために人生を捨ててくれるはずだった人だ。私が彼をあんなに立派にしたのよ」と泣き叫び、周囲から不気味な妄想癖だと一蹴され、居場所を完全に失ったとのこと。……彼女は今、自分が安売りし、ゴミのように捨てた「一途な誠実さ」が、別の女性を日本一の作家に押し上げたという残酷な現実に、魂を芯から焼き尽くされています』


 湊は、その文章を最後まで読むと、一切の感慨も、一滴の憎しみすら持たずに、ゴミ箱の「完全消去」を選択した。

 

 かつての彼は、その女性の身勝手な涙を拭うために、自分の睡眠を削り、将来の蓄えを削り、それでも「いつか報われる」と信じて自分を騙し続けてきた。

 だが、今の彼には、そんな色褪せた過去を振り返る暇すらない。

 

 彼が今、一途に注いでいるのは、この洋館に差し込む夕日の角度をどう調整し、栞が今夜、最高の眠りにつけるようにどんなアロマを焚くか。

 かつての婚約者が、泥沼の中で自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えて、彼の鼓動に触れることは、もう二度とない。

 

「……久遠さん、何か難しい顔をしているけれど。また若林君が、無理なスケジュールを言ってきたのかしら?」

「いいえ。……古い記録の整理が終わったという、ただの事務連絡です。……さあ、九条さん。夕食は、あなたが以前『また食べたい』と言っていた、あの季節の創作和食にしましょうか。今朝、市場で一番の金目鯛を仕入れてきましたから」


 湊はスマートフォンをポケットの奥深くに葬り去ると、栞の手を取り、彼女をダイニングへとエスコートした。

 

 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の足元は、降り注いだ雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも、どんな冷酷な悪意にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。

 

「……九条さん、明日の朝は、少し早起きして散歩に行きましょう。庭の紫陽花が、もうすぐ開きそうなんです。雨の日の準備も、僕がすべて整えておきますから」

「ええ。……あなたの見つける季節の移ろいを、私も隣で、ずっと一緒に見守りたいわ」


 孤独を溶かすのは、完璧な論理ではなく、一杯の温かいスープと、隣にいる人の体温。

 

 雨降って、地固まる。

 過去という重い泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、一歩一歩、確実に踏み出したのだ。


「……ねえ、久遠さん。……私、幸せすぎて、時々自分の実感が追いつかないの」

「……安心してください。……あなたが自分の幸せを信じきれるまで、僕が何度でも、あなたの為に最高の日常をデバッグし続けますから」


 洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして誰にも侵されない力強さで照らし続けていた。


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