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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第22話:一途な撮影現場、あるいは黒燿の守護者

 六月の湿り気を帯びた風が、映画のロケ地となった古い洋館の庭を吹き抜けていた。

 栞の新作『一途な守護者』のクランクイン。現場は、主演俳優の瀬名をはじめとする豪華キャストと、数十名のスタッフ、そして巨大な機材がひしめき合い、独特の殺気立った熱気に包まれている。


 その喧騒から一歩引いた、日陰の特等席。

 湊は、栞の隣で静かに、だが鋭い眼差しで現場を「デバッグ」していた。

 

「……九条さん、水分補給を。今のシーン、テイクを重ねていますから、あなたの集中力が切れる前にリフレッシュしましょう。特製の梅とはちみつのドリンクです」

「ありがとう、久遠さん。……あなたがいなかったら、私、この人数の視線だけで倒れていたわ」


 栞は、湊が差し出したタンブラーを受け取り、一口含んで小さく吐息を漏らした。

 

 周囲のスタッフたちは、最初、湊のことを「作家に付いているただの世話係」だと思っていた。だが、撮影が始まって数時間、彼らはこの「主夫」という肩書きの男が、並の制作進行よりも遥かに現場の「不備」を先読みし、解消していることに気づき始めていた。


 例えば、俳優の立ち位置バンプに合わせて、栞の視界を遮らないよう椅子を移動させるタイミング。

 例えば、機材の搬入で荒れた庭の芝生を、休憩時間にさりげなく手入れし、撮影の「絵」を完璧に保つ所作。

 さらには、昼食のケータリングに不満を漏らすスタッフたちの間に、湊が差し入れた「黒燿館特製の冷製スープ」が配られた瞬間、現場の空気が劇的に和らいだ。


「……信じられない。あのスープ一杯で、ピリついていたスタッフの動きが三割増しで良くなったぞ。久遠さん、あなた本当は何者なんだ?」


 プロデューサーが、湊の元へ歩み寄り、驚きを隠せずに問いかけた。

 湊は、栞の肩に冷え防止のストールを掛けながら、穏やかに答えた。


「ただの、家事と健康管理を任されている者ですよ。……作品を最高の形にするには、それを作る人間たちの『生活の質』が重要ですから」


 その時、撮影現場の隅で、一人の女性スタッフが小さな悲鳴を上げた。

 撮影用の重要な小道具であるアンティークの時計が、接触により微細な部品の欠落を引き起こし、動作を止めてしまったのだ。美術スタッフが青ざめ、撮影中断の空気が流れる。

 湊は、その場へ静かに歩み寄った。


「……失礼。構造を拝見してもよろしいでしょうか?」


 彼は、かつて精密機器の仕様をミリ単位で解析していたSEの指先で、壊れた時計の内部を覗き込んだ。

 周囲が息を呑む中、湊は持参していた家事用の極細ピンセットを取り出し、わずか数分でギアの噛み合わせを修正し、時計に再び「鼓動」を戻してみせた。


「……直った。……おい、本当に直ったぞ!」

救世主メシアだ……。九条先生の隣には、とんでもない怪物がいる!」


 スタッフたちから賞賛の声が上がる中、湊は何事もなかったかのように栞の元へ戻り、彼女の手を優しく握った。


「……お騒がせしました。九条さん、撮影が再開されますよ。あなたの言葉が、動き出す瞬間を、しっかり見届けてください」

「ええ。……あなたがいるから、私は何も怖くないわ」


 その夜、湊のスマートフォンには、弁護士からの「最終報告・補足」が届いていた。

 湊は、栞が撮影の疲れで心地よい眠りについた後、月明かりの下でその画面を流し読みした。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は地方の加工工場の寮で、テレビから流れる「映画化決定」のニュースを、ただ呆然と見つめる日々を送っているようです。彼女の元には、かつての贅沢三昧で膨れ上がった借金の督促が、逃れようのない影のように付きまとっています。……彼女は同僚に「あの映画を支えているのは、私の夫になるはずだった人なの」と泣きながら訴えたそうですが、汚れた作業着姿の彼女の言葉を信じる者は、一人もいませんでした。……彼女は今、自らが手放した「誠実な守護者」が、別の女性を日本中の羨望の的にしているという残酷な事実に、精神を削り取られています』


 湊は、その文章を最後まで読むと、一切の感慨を持たずに「消去」を選択した。

 

 かつての彼は、彼女が「助けて」と言えば、自分の人生を差し出してでも応えた。

 だが、今の彼にとって、彼女の絶望も、彼女の末路も、もはや自分の人生の「仕様」には含まれていない。

 

 彼が今、一途に捧げているのは、撮影現場で見せた、栞のあの誇らしげな笑顔と、彼女が紡ぐ物語の行く末だけだ。

 かつての婚約者が、泥沼の中で自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。

 

「……久遠さん、まだ起きているの?」


 寝室から、眠たげな栞の声が聞こえてきた。

 湊はスマートフォンをポケットの奥深くに仕舞い、愛する人の元へと歩き出した。

 

「ええ。……明日も、あなたが最高の状態で現場に立てるよう、準備を整えていたところです」

「ふふ。……私の騎士様は、働きすぎね。……おやすみなさい、久遠さん」

「おやすみなさい、栞さん」


 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな巨大な力にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。

 

 雨降って、地固まる。

 過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本当の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、新しく、そして力強く踏み出したのだ。


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