第23話:一途な契り、あるいは未亡人の卒業
映画『一途な守護者』の撮影は、湊の完璧なサポートによって、当初の予定を大幅に前倒しする順調さで進んでいた。
現場ではもはや、湊は「原作者の同伴者」という枠を超え、スタッフや俳優たちから「現場の空気を整える魔術師」として絶大な信頼を寄せられる存在となっていた。
そんなある日の夜、撮影を終えて黒燿館に戻った二人は、リビングで静かにレモンティーを囲んでいた。窓の外では初夏の虫たちが、季節の移ろいを告げるように控えめな合唱を始めている。
「……久遠さん。今日、瀬名君に聞かれたの」
栞が、カップを見つめたまま、ふと独り言のように呟いた。
湊は、彼女の着ていたジャケットを丁寧にハンガーに掛け、ブラシで埃を払いながら耳を傾ける。
「彼、なんて言ったんですか?」
「『九条先生にとって、久遠さんはどういう存在なんですか』って。……私は、迷わず答えたわ。私の人生に光を戻してくれた、世界でたった一人の大切なパートナーだって」
栞は顔を上げ、湊を真っ直ぐに見つめた。
その瞳には、かつて出会った頃の「孤独に怯える未亡人」の面影は微塵もない。湊の誠実な愛と献身によって育まれた、一人の自立した女性としての、強い意志が宿っていた。
「……でも、気づいたの。世間から見れば、私たちはまだ『作家と、その生活管理者』でしかない。……私は、それが少しだけ、悲しいと思ってしまったの」
栞は立ち上がり、湊の元へと歩み寄った。
彼女は、湊の大きな掌を自分の両手で包み込み、それを自らの頬に当てた。湊の指先からは、夕食の準備で使ったハーブの微かな香りと、彼の人柄そのもののような、穏やかな熱が伝わってくる。
「……久遠さん。私、もう『未亡人』っていう名前を捨てたいわ」
「……九条さん」
「私は、九条栞ではなく、あなたの隣に並ぶ一人の女性になりたい。……法的にも、社会的にも、あなたの『妻』として生きていきたいの。……私と、籍を入れてくれないかしら?」
それは、逆プロポーズとも呼べる、あまりに真っ直ぐな言葉だった。
湊は、その言葉の重みを喉の奥で噛み締めた。
かつての彼は、元婚約者から「結婚」を餌に、財布と心を搾り取られ続けた。彼にとって「籍を入れる」という行為は、長らく恐怖と同義だったはずだ。だが今、目の前にいる女性からの願いは、彼にそんな過去の傷を思い出させる暇さえ与えなかった。
「……栞さん。……僕は、あなたに出会ったあの日から、自分の人生をあなたの為に捧げると決めています。……『主夫』という名前の、一生終わることのないあなたの守り人。……その責任を、僕に正式に負わせていただけるなら、これ以上の光栄はありません」
湊は、彼女を壊れ物を扱うように、だが決して離さない強さで抱きしめた。
その穏やかな時間の裏側で、湊のスマートフォンには、弁護士からの「追伸(完全終了)」が届いていた。
湊は、栞がその胸の中で安らかな寝息を立て始めた後、月明かりの下でその画面を流し読みした。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は生活保護の受給すら、過去の浪費と資産隠しの疑いで難航し、劣悪な環境のシェルターに身を寄せているようです。彼女はテレビの芸能ニュースで、あなたが栞さんと並んで歩く姿を見るたびに、「あれは私のための優しさだったのに、どうしてあの人が独り占めしているの」と、壁に向かって泣き叫んでいるとのこと。……彼女は今、自らが手放した「誠実な守護者」が、別の女性を世界一の幸せ者にしているという残酷な事実に、魂を芯から焼き尽くされています。……これで、私の手元にあるすべての過去の処理は、物理的にも、法的にも、そして因果的にも完了しました』
湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく、その「過去」をスマートフォンの奥底へと永久にパージ(排除)した。
かつての彼は、彼女が泣けば自分の心を削ってでも笑顔にしようとした。
だが、今の彼にとって、彼女の絶望も、彼女の涙も、既に自分の人生とは無関係な「背景のノイズ」ですらなかった。
彼が今、一途に捧げているのは、腕の中で眠る栞の、その誇らしい寝顔を守ること。
かつての婚約者が、泥沼の中で自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。
「……愛しています、栞さん。……明日も、明後日も、あなたが最高の笑顔で目覚められるように。……僕は、世界一の主夫として、あなたの隣にいますから」
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い悪意にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、一歩一歩、確実に踏み出したのだ。
「……ねえ、久遠さん……。明日の朝食は、何……?」
「……あなたが、一番笑顔になれるものです。……楽しみにしていてください」
洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの永遠を優しく、そして強く照らし続けていた。




