第24話:一途な名前、あるいは新しい戸籍
初夏の陽光が、黒燿館のダイニングテーブルに置かれた一枚の書類を白く照らし出していた。
『婚姻届』。
かつての湊にとって、この書類は恐怖と絶望の象徴だった。元婚約者から突きつけられ、彼女の贅沢を法的に担保し、自分の自由を永久に売り渡すための契約書――そう思っていた時期が、彼にもあった。
だが今、目の前にあるそれは、かつての泥濘のような感情を一切呼び起こさない。ただ、愛する人の隣に立ち続けるための、誇り高きライセンスのように見えた。
「……久遠さん。私、自分の名前を書くのが、こんなに緊張するなんて思わなかったわ」
栞は、湊が丁寧に手入れをしたお気に入りの万年筆を握り、震える手で書類を見つめていた。
彼女は、九条という亡き夫の姓を捨て、久遠という湊の姓を名乗ることを選んだ。それは、彼女が「過去の影」であることを止め、一人の女性として湊と共に生きる決意の表れだった。
「ゆっくりでいいですよ、栞さん。……間違えたら、また僕が新しいものを用意します。……あなたの人生のデバッグ(修正)なら、何度だって僕が引き受けますから」
湊は、彼女の背中にそっと手を添え、穏やかに微笑んだ。
栞は深く息を吐き、意を決したようにペン先を紙に下ろした。
流れるような筆致で記される、新しい名前。
書き終えた瞬間、彼女は憑き物が落ちたような、清々しい笑顔を湊に向けた。
「……できたわ。これで私、今日から『久遠栞』ね」
「ええ。……ようこそ、久遠家へ。……といっても、僕とあなたの二人だけの、小さな家族ですが」
湊は、彼女が記入した婚姻届を大切にクリアファイルに収めた。
かつて元婚約者に通帳とカードを奪われ、「愛しているなら当然でしょ」と笑われたあの地獄。それに対し、今、栞は自分の印税や屋敷の権利さえも「すべてあなたに管理してほしい。あなたの色に染めてほしい」と、純粋な信頼の全てを預けてきている。
搾取ではなく、共有。
支配ではなく、慈しみ。
湊は、かつての自分がどれほど歪んだ場所にいたのかを、今の幸福という光の中で改めて痛感していた。
その穏やかな時間の裏側で、湊のスマートフォンには、弁護士からの「最終報告・補足」が届いていた。
湊は、栞が「新しい苗字に慣れるために」とノートに名前を練習し始めた隙に、その画面を流し読みした。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、地方の加工工場での不審な言動が問題視され、解雇となったようです。現在は、身寄りのない高齢者が集まる劣悪な下宿先で、かつて自分が捨てたはずの「誠実な男」が、今や時の人である九条栞を支えるパートナーとして、日本中の憧れの的になっているニュースを、ただ呆然と見つめる日々を送っているとのこと。……彼女は周囲に「あの人は、私のために何でもしてくれたの。本当は私の夫になるはずだったの」と泣き喚くそうですが、汚れた姿の彼女を相手にする者は、もはや誰もいません。……彼女は、自らがゴミのように捨てた『一途な誠実さ』が、実は世界で最も手に入らない至宝であったことに、今さら気づいて悶え苦しんでいるようです。……おめでとうございます、久遠様。これで全ての過去は、文字通り『無』に帰しました』
湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく「データの完全消去」を実行した。
かつての彼は、彼女のわがままを叶えるために、自分の心を削り続け、それが誠実さだと信じていた。
だが、今の彼には、その孤独な女性の絶望に、一滴の同情も、一ミリの感慨も湧かなかった。
彼が今、一途に注いでいるのは、テーブルの向こうで「久遠栞」という署名を愛おしそうに見つめる、この愛らしい女性の平穏だけだ。
かつての婚約者が、泥沼の中で自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えて、彼の鼓動に触れることは、もう二度とない。
「……久遠さん、何を見ているの?」
「いいえ。……以前の場所で、僕がずっと心に引っかけていた荷物が、ようやくすべて片付いたという連絡です。……もう、僕が振り向く必要のある過去は、どこにもなくなりました」
湊はスマートフォンをポケットの奥深くに仕舞い込み、栞の手を取った。
「さあ、栞さん。……今夜は、お祝いです。……僕たちの新しい家族の門出にふさわしい、最高のご馳走を作りますよ」
「ええ! ……あなたの作るご飯を食べている時が、私の人生で一番、誇らしい時間よ」
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、完全に踏み出したのだ。
「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」
「……あなたが、一番笑顔になれるものです。……楽しみにしていてください、栞さん」
洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの永遠を優しく、そして強く照らし続けていた。




