第25話:一途な姓名、あるいは真実の家族
役所の窓口で「受理されました」という事務的な言葉を聞いた瞬間、湊の隣で栞が小さく震えたのを、彼は見逃さなかった。
九条栞から、久遠栞へ。
それは単なる戸籍の書き換えではない。彼女が背負い続けてきた「亡き夫の影」という重荷を降ろし、湊という名の新しい光と共に生きることを社会が認めた瞬間だった。
屋敷へと戻る車中、栞は自分の新しい保険証や書類を何度も眺めては、子供のように無邪気な笑みを浮かべていた。
「……ねえ、久遠さん。私、さっきから何度も心の中で唱えているの。『久遠栞』って。……なんだか、自分自身の物語に、ようやく本当のタイトルがついたみたいな気分だわ」
栞は湊の腕に身を寄せ、その温もりに顔を埋めた。
湊は、運転を代行する若林(彼は感極まってハンドルを握りながら号泣していた)の横で、彼女の細い肩をしっかりと抱き寄せた。
黒燿館へ帰り着くと、そこには湊が事前に準備していた、小さな、だが贅を尽くした「二人だけの披露宴」が待っていた。
テーブルには、出会ったあの日に湊が作ったパスタを、最高級の食材で再定義した『始まりの金のパスタ』が並んでいる。さらに、栞の好物である旬の魚介を湊が自ら捌いたカルパッチョ、そして琥珀色のシャンパン。
「……今日からは、僕はあなたの『使用人』ではありません。……あなたの人生を共に歩み、そのすべてを一番近くで管理し、慈しむ『夫』です。……よろしくお願いします、栞さん」
湊が恭しく頭を下げると、栞は瞳に大粒の涙を溜めて、彼の手を握りしめた。
かつての湊にとって、結婚は「自分を削って相手を満たす」苦行でしかなかった。元婚約者の言いなりになり、自分名義の借金を重ね、彼女の贅沢を支えるために睡眠を削る。それが誠実さだと自分を騙していた。
だが今、目の前にあるのは、自分の誠実さを「宝石」のように大切に扱い、それに応えようと懸命に筆を執り、微笑みかけてくれる一人の女性だ。
搾取ではなく、共鳴。
献身ではなく、愛。
湊は、その違いを噛み締めるように、彼女の唇にそっと触れた。
その穏やかな祝祭の裏側で、湊のスマートフォンの通知センターが、静かに、そして冷徹に震えた。
弁護士からの、これが本当に最後となるであろう「事後報告・完結」だ。
湊は、栞がデザートの準備をするためにキッチンへ向かった隙に、その画面を一瞥した。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、地方の加工工場を解雇された後、現在は山間部の更生支援施設に入所したとのこと。……彼女はそこで、偶然目にしたワイドショーの特集――「天才作家を支える最強の主夫、その驚愕の管理術」というコーナーで、あなたの近影を見たそうです。……磨き抜かれた洋館の中で、自信と誇りに満ちた顔で微笑むあなた。……彼女は「あの服も、あの笑顔も、本当は私のためにあったはずの魔法なのに……」と、施設の中庭で虚空を掴むように泣き崩れたといいます。……彼女が捨てたのは、一人の男ではなく、自分の人生を楽園に変えてくれたはずの「神様のような誠実さ」そのものであったことに、彼女は一生をかけて後悔という名の毒を飲み続けることになるでしょう。……これにて、私の関与すべき事案はすべて消滅いたしました』
湊は、その文章を最後まで読むと、一切の感情を排して「全消去」のボタンを押し、スマートフォンの電源を落とした。
かつての彼は、彼女が「助けて」と言えば、自分の命を投げ出してでも駆けつけただろう。
だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生からデバッグ(排除)された、存在しないはずのデータの一部でしかなかった。
彼が今、一途に注いでいるのは、キッチンから「久遠さん、イチゴが甘いわ!」と呼ぶ、愛する妻の声だけだ。
かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名前を呪おうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。
「……お待たせしました、栞さん。……今夜は、誰の邪魔も入らない、僕たちだけの新しい人生の『第一話』を始めましょう」
湊は、栞の細い腰を抱き寄せ、静かに明かりを消した。
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に踏み出したのだ。
「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」
「……あなたが、一番幸せになれるものです。……一生かけて、作り続けますよ、栞さん」
洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。




