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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第26話:一途な拒絶、あるいは聖域の境界線

 黒燿館を囲む高いレンガ塀の向こう側で、季節は初夏から盛夏へと移ろおうとしていた。

 湊は、リビングの大きな窓から差し込む力強い陽光を、厚手の遮光カーテンで絶妙に調整し、室内を栞が最も好む「涼やかな琥珀色」に保っていた。室温は二十四度、湿度は五十パーセント。SE時代にサーバールームの環境をミリ単位で制御していた彼にとって、愛する妻が執筆に没頭できる「聖域」の維持は、もはや呼吸と同じほど自然な所作となっていた。


 その穏やかな静寂を切り裂くように、インターホンが不躾な音を立てた。

 モニターに映し出されたのは、仕立ての悪いスーツをだらしなく着こなした、見覚えのある二人組の男たちだ。

 一人は、湊がかつて在籍していたIT企業の直属の上司、佐藤。もう一人は、湊に全ての面倒なデバッグを押し付け、手柄だけを掠め取っていた元同僚の田中だった。


「……九条さん、少しだけ席を外しますね。来客のようですが、あなたが気にするようなものではありません」


 湊は、書斎の扉越しに栞へ穏やかな声をかけた。栞は新作のプロットに夢中で、短く「ええ、お願い」とだけ答える。その信頼しきった声に、湊の口元がわずかに、だが深い慈しみを湛えて綻んだ。


 玄関の扉を開けると、夏の熱気と共に、かつての職場の「腐った空気」が流れ込んできた。佐藤と田中は、湊の姿を見るなり、驚愕に目を見開いた。

 そこに立っていたのは、深夜残業で目を血走らせ、猫背で卑屈に笑っていた「使い勝手のいい久遠」ではなかった。

 磨き抜かれた床のように凛とした立ち姿。高級なエプロンを優雅に纏い、その瞳には、何者にも侵されない気高さを宿した、九条栞の「守り人」としての湊だった。


「……久遠! お前、本当にここにいたのか! ネットの噂は本当だったんだな!」

「久しぶりだな久遠。いや、今は『久遠先生の旦那様』って呼んだほうがいいのか? お前が辞めてから、うちのチームはボロボロなんだ。お前にしか解けないバグが溜まってさ……」


 佐藤が揉み手をして近づいてくる。その下卑た笑顔の裏には、今の湊の「金」と「人脈」を利用しようという醜い下心が透けて見えた。

 田中も、かつて湊を「デバッグマシン」と呼んで馬鹿にしていたことなど忘れたかのように、馴れ馴れしく肩に手を置こうとする。


 湊は、その手を紙一枚の差で躱すと、氷のような冷徹な視線を二人へ向けた。


「……お引き取りを。ここは、一人の作家が魂を削って物語を紡いでいる聖域です。あなた方のような、他人の誠実さを食いつぶすことしか能のない方々が、土足で踏み込んでいい場所ではありません」


 湊の声は、低く、そして透き通るほど冷静だった。

 感情を排除し、事実ロジックだけで構成された言葉のナイフが、二人の虚勢を次々と切り裂いていく。


「な、なんだと! 俺たちはお前の元上司だぞ! お前が路頭に迷わないように、わざわざ再雇用の話を持ってきてやったんだ! 恩を忘れたのか!」

「恩……ですか。深夜三時に呼び出し、私の給与をカットしながら、手柄だけを自分のものにしていたことでしょうか。それとも、私が過労で倒れた際、『代わりはいくらでもいる』と吐き捨てたことでしょうか」


 湊は、一歩も引かずに二人を圧した。

 彼にとって、この二人も、そしてあの元婚約者も、同じ「搾取者」というカテゴリーに属するバグでしかなかった。かつての彼は、そのバグさえも「自分の力不足」だと思い込んで受け入れてきたが、今の彼には、守るべき「真実の愛」がある。


「今の私には、守るべき日常があります。あなた方の会社が倒産しようと、プロジェクトが炎上しようと、私の人生には一滴の影響もありません。……これ以上、私の妻の安らぎを乱すなら、私のSEとしての全ての技術を使い、あなた方の会社の不透明な会計処理を徹底的に解析し、公的機関へ通報させていただきますが?」


 湊の眼鏡の奥で、冷徹な光が宿った。

 佐藤と田中は、その「本物の強者」の気迫に蛇に睨まれた蛙のように硬直し、捨て台詞を吐きながら逃げるように去っていった。


 静寂が戻ったエントランスで、湊は深く、長く息を吐いた。

 怒りではない。ただ、不浄なものを物理的に排除した後の、清々しい安堵だった。


 その時、湊のポケットの中でスマートフォンが、静かに震えた。

 弁護士からの、もう読む必要もない「最終事後報告・追伸」だ。

 湊は、栞がリビングへ降りてくる前に、その画面を一瞬だけ確認した。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、更生施設での共同生活にも馴染めず、現在は孤独な清掃作業員として、深夜の街を転々としているようです。彼女は、偶然目にした街頭ビジョンで、あなたが「理想の夫」として特集されている映像を見かけたとのこと。……そこに映る、栞さんを愛おしそうに見つめ、彼女のすべてを慈しむあなたの姿。……彼女は崩れ落ち、「あの優しさは、私だけのものだったはずなのに……」と、ゴミの山の中で声を殺して泣き続けているそうです。……彼女が捨てたのは、一人の男ではなく、自分の人生を楽園に変えてくれたはずの「唯一無二の献身」であったことに、彼女は一生、後悔の闇の中で気づき続けることになるでしょう。……これで、私の物語も完結です』


 湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく「データの完全消去」を実行した。

 

 かつての彼は、彼女が「助けて」と言えば、自分の人生を捨ててでも駆けつけただろう。

 だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生からデバッグされた、存在しないはずのバグの一部でしかなかった。

 

 彼が今、一途に注いでいるのは、二階から「久遠さん、お腹が空いたわ」と呼ぶ、愛する妻の声だけだ。

 かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名前を呪おうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。

 

「……お待たせしました、栞さん。……今夜は、あなたが以前『美味しい』と言ってくれた、あの特製ポタージュを、さらに改良して作りましたよ。……身体の芯から、温まってください」


 湊は、降りてきた栞を優しく、だが力強く抱き寄せた。

 

 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。

 

 雨降って、地固まる。

 過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に踏み出したのだ。


「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」

「……あなたが、一番幸せになれるものです。……一生かけて、作り続けますよ、栞さん」


 洋館に灯った明かりは、夏の夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。


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