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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第27話:一途な門出、あるいは新しい苗字の響き

 夏の午後の日差しが、黒燿館の庭にある紫陽花の青をいっそう鮮やかに浮かび上がらせていた。

 湊は、リビングの重厚なサイドボードの上に、昨日役所から持ち帰ったばかりの数枚の書類を並べていた。そこには、受理印の押された婚姻届の控えと、新しく作成される戸籍の受理証明書が、静かな誇りを湛えて置かれている。


 久遠くおん栞。

 

 その新しい名前の響きを、湊は心の中で何度も繰り返した。かつて「九条栞」という名が纏っていた孤独と悲劇のヴェールは、今や湊の姓という新しい外装によって上書きされ、一人の自立した女性としての輝きに変わろうとしている。


「……久遠さん。なんだか、まだ不思議な気分だわ。私、さっき自分の原稿の端に、無意識に『久遠』って書きそうになっちゃった」


 二階の書斎から降りてきた栞が、少しだけ照れくさそうに、だが心底幸せそうに目を細めて湊の隣に腰掛けた。

 彼女は、湊が今朝の市場で見つけてきた、瑞々しい桃のコンポートを一口運んだ。湊が作る料理は、もはや彼女にとっての栄養素という枠を超え、自らの物語を紡ぐための「生命の潤滑油」となっていた。


「それは、あなたがそれだけ前を向いている証拠ですよ、栞さん。……これからは、僕の苗字があなたの盾になります。誰にも、あなたを『過去の未亡人』として扱わせるつもりはありませんから」


 湊は、栞の細い肩を引き寄せ、その髪にそっと唇を寄せた。

 かつての湊にとって、結婚とは「自分を殺して相手に尽くすこと」と同義だった。元婚約者のわがままを叶えるために睡眠を削り、将来の貯えを貢ぎ、結果としてゴミのように捨てられたあの屈辱。だが、今の彼は知っている。

 

 真実の愛とは、搾取ではなく、お互いの人生をデバッグし合い、より高い次元へと最適化していく共同作業であることを。


 その穏やかな時間の裏側で、湊のスマートフォンの通知センターが、静かに、そして冷徹に震えた。

 弁護士からの、これが本当に最後となるであろう「事後報告・完結」のメッセージだ。

 湊は、栞が「美味しいわ」と微笑みながらデザートを頬張る隙に、その無機質なテキストを流し読みした。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、地方の加工工場を解雇された後、現在は山間部の更生支援施設に入所することになったようです。……彼女はそこで、偶然目にしたワイドショーの特集――「天才作家を支える最強の主夫、その驚愕の管理術」というコーナーで、あなたの近影を見たとのこと。磨き抜かれた洋館の中で、自信と誇りに満ちた顔で微笑むあなた。……彼女は「あの服も、あの笑顔も、本当は私のためにあったはずの魔法なのに……」と、施設の中庭で虚空を掴むように泣き崩れたといいます。……彼女が捨てたのは、一人の男ではなく、自分の人生を楽園に変えてくれたはずの「唯一無二の献身」そのものであったことに、彼女は一生、後悔の闇の中で気づき続けることになるでしょう。……これにて、私の任務はすべて完了しました。もう、彼女があなたの人生にノイズを落とすことはありません』


 湊は、その文章を最後まで読むと、一切の感情を排して「データの全消去」を実行した。

 

 かつての彼は、彼女が「助けて」と言えば、自分の人生を投げ出してでも駆けつけただろう。

 だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生の「仕様」には含まれていない。

 彼が今、一途に注いでいるのは、隣で「久遠さん、イチゴが甘いわ!」と呼ぶ、愛する妻の声だけだ。

 

 かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名前を呪おうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。

 

「……久遠さん、どうかした?」

「いいえ。……以前の場所で、僕がずっと心に引っかけていた荷物が、ようやくすべて片付いたという連絡です。……もう、僕が振り向く必要のある過去は、どこにもなくなりました」


 湊はスマートフォンをポケットの奥深くに仕舞い込み、栞の手を優しく、だが力強く握り返した。


「さあ、栞さん。……今夜は、お祝いです。……僕たちの新しい家族の門出にふさわしい、最高のご馳走を作りますよ。九条栞の卒業と、久遠栞の誕生を祝して」

「ええ! ……あなたの作るご飯を食べている時が、私の人生で一番、誇らしい時間よ」


 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。

 

 雨降って、地固まる。

 過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に踏み出したのだ。


「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」

「……あなたが、一番幸せになれるものです。……一生かけて、作り続けますよ、栞さん」


 洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。


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