第28話:一途な披露、あるいは守護者の正装
都心の夜を彩る、高層ビルの巨大なスクリーン。そこに映し出されたのは、映画『一途な守護者』の完成披露試写会を告げる華やかな映像だった。
会場となるホテルのメインホールには、数え切れないほどのフラッシュが瞬き、レッドカーペットの両脇には、復活した天才作家・九条栞を一目見ようと、大勢のファンと報道陣が詰めかけていた。
その舞台裏、控室の静寂の中で、湊は最後の手仕上げを行っていた。
鏡の前に立つのは、真夜中の海を思わせる深いベルベットのドレスに身を包んだ栞だ。湊は彼女の背後に回り、細い首筋にかかる一筋の髪を丁寧に整えると、その肩に、自らが選び抜いた一粒の真珠のネックレスを添えた。
「……完璧です、栞さん。今のあなたは、どんな物語のヒロインよりも、凛としていて美しい」
「……ありがとう、久遠さん。あなたがこうして、私のために正装を整えてくれるだけで……。私、自分が『大切にされている一人の女性』なんだって、心の底から実感できるの」
栞は、鏡越しに湊を見つめ、幸せそうに微笑んだ。
かつての彼女は、人前に出ることを「自分を切り売りする行為」だと思い、怯えていた。だが今の彼女の隣には、どんなノイズも遮断し、彼女の尊厳を命懸けで守り抜く「守護者」が立っている。
湊自身も、今日はいつものエプロンを脱ぎ、体に吸い付くような漆黒のタキシードを纏っていた。SE時代、死んだような目でディスプレイに向かっていた男の面影はどこにもない。背筋を伸ばし、愛する人をエスコートするために鍛え上げられたその佇まいは、並み居る俳優たちを凌駕するほどの気品と威圧感を放っていた。
「さあ、行きましょうか。……世界に、僕たちの新しい物語を見せに行きましょう」
湊が差し出した腕を、栞がぎゅっと抱きしめる。
会場の扉が開いた瞬間、怒涛のようなフラッシュの嵐が二人を襲った。だが、湊は眉一つ動かさず、栞の歩調に合わせてゆっくりと、だが堂々とレッドカーペットを進んでいった。
『あの男性は誰だ!?』『九条栞の隣にいる、あの気高き紳士は――』
ざわめきが波紋のように広がる中、司会者が震える声で二人を紹介する。
「……ご紹介いたします。本作の原作者、九条栞先生。そして、先日正式にご結婚を発表されました、夫の久遠湊様です!」
会場が、一瞬の静寂の後に割れんばかりの拍手に包まれた。
かつての「悲劇の未亡人」が、自分の足で立ち、そしてこれほどまでに誠実そうな伴侶を得て戻ってきた。その幸福な事実は、集まった人々の心を激しく揺さぶった。
壇上に上がった栞は、マイクを前にして、真っ直ぐに湊を見つめた。
「……私は、かつて孤独という雨に濡れていました。でも、彼は私の扉を叩き、何も言わずに温かい食事を作ってくれました。……彼が私の生活を整えてくれたから、私は再び、物語を紡ぐことができたのです。……私は今、久遠栞として、彼の隣にいることを誇りに思います」
その言葉は、どんな緻密なミステリーの結末よりも、人々の胸に深く突き刺さった。
湊は、その喝采を浴びる彼女の影となり、誇らしげに胸を張った。
その熱狂の最中、湊のポケットの中でスマートフォンが短く震えた。
それは、弁護士からの「最終清算・補足」――もはや湊にとっては、処理済みの過去の断片でしかない。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は地方の簡易宿泊所で、テレビから流れるこの授賞式と披露宴の中継を、ただ呆然と見つめているようです。……彼女は、画面に映る、自信と愛に満ち溢れたあなたの姿を見て、自分の爪が剥げるほど壁を掻き毟り、「あの誠実さは、私のためにあったはずなのに……どうしてあの人が独り占めしているの」と、誰もいない部屋で泣き叫んでいるとのこと。……彼女は今、自らがゴミのように捨てた『一途な誠実さ』が、実は世界で最も手に入らない至宝であったことを、骨の髄まで理解し、一生をかけて後悔という名の毒を飲み続けることになるでしょう。……これにて、私の任務はすべて完了しました。もう、彼女の声があなたに届くことはありません』
湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく「データの完全消去」を実行した。
かつての彼は、彼女が「助けて」と言えば、自分の人生を捨ててでも駆けつけた。
だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生からデバッグ(排除)された、存在しないはずのデータの一部でしかなかった。
彼が今、一途に注いでいるのは、壇上で拍手を受ける、愛する妻の背中を守ること。
かつての婚約者が、泥沼の中で自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えて、彼の鼓動に触れることは、もう二度とない。
「……久遠さん、私……やり遂げたわ」
「ええ。……素晴らしいスピーチでした、栞さん。さあ、帰りましょう。今夜は、あなたの大好物を用意してありますから」
湊は栞を優しく抱き寄せ、ホテルの喧騒を後にして、自分たちの「聖域」へと戻る車に乗り込んだ。
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に踏み出したのだ。
「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」
「……あなたが、一番幸せになれるものです。……一生かけて、作り続けますよ、栞さん」
洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。




