第29話:一途な誓約、あるいは聖域の祝祭
映画の完成披露試写会という狂騒が、都心の夜を熱く染め上げてから数日。黒燿館には、以前にも増して深く、穏やかな静寂が戻っていた。
湊は、リビングの広大なテーブルに、一通の招待状のサンプルを広げていた。
それは、派手なホテルや大勢の参列者を必要としない、この洋館でひっそりと行われる「ささやかな結婚式」の報せだ。SE時代、数万行のコードの整合性に心血を注いでいた湊の指先は、今、栞の好む繊細なレースをあしらったカードの配置をミリ単位で調整している。
「……久遠さん、また根を詰めすぎているわ。少し、休憩しない?」
二階の書斎から降りてきた栞が、湊の肩にそっと手を置いた。
彼女は、湊が今朝の市場で見つけてきた、旬の苺をたっぷりと使ったタルトを一口運び、幸せそうに目を細めている。湊の献身によって血色を取り戻した彼女の肌は、今や夏の陽光を弾くほどに瑞々しい。
「九条さん……いえ、栞さん。大切な門出ですから。……あなたがこの家で、どれほど愛され、守られているか。それを証明する儀式にしたいんです」
湊は、彼女の手を優しく、だが力強く握り返した。
かつての湊にとって、人生は「エラーとの戦い」だった。元婚約者の不条理な要求に応え、彼女の浪費というバグを自分の身を削って修正し続ける日々。その先に待っていたのは、自分の人生というシステムそのものの崩壊だった。
だが今、彼の目の前にあるのは、自分の「誠実さ」を、世界で最も価値のある『至宝』として受け止めてくれる一人の女性だ。
「……ありがとう、久遠さん。私、あんなに大勢の人に祝福されるなんて思わなかった。……でもね、一番嬉しかったのは、あなたが隣で『僕の妻です』と胸を張ってくれたこと。……私、あの瞬間に、本当の意味で九条栞を卒業できた気がするの」
栞は湊の胸に顔を埋め、その温かな体温を全身で感じ取った。
かつて孤独に凍えていた未亡人は、今、湊という名の「一途な太陽」に照らされ、一人の女性として完璧な幸福の中にいた。
その穏やかな時間の裏側で、湊のスマートフォンには、弁護士からの「最終報告・補足」が届いていた。
湊は、栞が「招待状、私も手伝いたいわ」とペンを手に取った隙に、その画面を流し読みした。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は地方の簡易宿泊所で、テレビから流れるあなたの結婚のニュースを、ただ呆然と見つめる日々を送っているようです。……彼女は同僚に「あの人は私の婚約者だったの。本当は私のためにあったはずの魔法なのに……」と泣き喚き、周囲から冷たい失笑を浴びたとのこと。……彼女は今、自らが手放した「一途な誠実さ」が、実は世界で最も手に入らない救いそのものであったことを、骨の髄まで理解し、一生をかけて後悔という名の泥を啜り続けることになるでしょう。……これにて、私の関与すべき過去はすべて、永遠にパージされました』
湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく「データの完全消去」を実行した。
かつての彼は、彼女が泣けば自分の心を削ってでも笑顔にしようとした。
だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生からデバッグ(排除)された、存在しないはずのバグの一部でしかなかった。
彼が今、一途に注いでいるのは、テーブルの向こうで一生懸命に自分の新しい名前――『久遠栞』を練習する、この愛らしい女性の平穏だけだ。
かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えて、彼の鼓動に触れることは、もう二度とない。
「……久遠さん、見て。……上手く書けたわ」
栞が差し出した紙には、凛とした文字で二人の連名が記されていた。
湊はそれを愛おしそうに眺め、彼女の額に優しく唇を寄せた。
「ええ。……世界で一番、美しい名前です」
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に踏み出したのだ。
「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」
「……あなたが、一番幸せになれるものです。……一生かけて、作り続けますよ、栞さん」
洋館に灯った明かりは、夏の夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。




