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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第30話:一途な聖域、あるいは黄金の誓い

 夏の静かな朝だった。

 黒燿館の庭は、湊が数ヶ月かけて手入れを続けてきた甲斐があり、百合の香りが風に乗って、開け放たれた窓から室内へと流れ込んでいる。今日は、この洋館で行われる「ささやかな、二人だけの結婚式」の日だった。


 湊は、リビングの一角に作られた臨時の祭壇を、最後の一分まで確認していた。

 参列者は、担当編集の若林と、栞の再起を支えた数人のスタッフだけだ。派手なホテルも、騒がしいカメラのフラッシュもない。だが、ここには、かつての湊が元婚約者との「偽りの結婚準備」で一度も感じることのできなかった、深い安らぎと、胸が震えるような確かな幸福があった。


「……久遠さん、準備はいいかしら」


 二階から降りてきた栞の姿に、湊は息を呑んだ。

 彼女が纏っているのは、湊が彼女の瞳の色に合わせて選んだ、透き通るような白のシルクドレスだ。かつて「死者の家」と呼ばれたこの洋館で、孤独に震えていた未亡人は、今、湊という名の「一途な光」に照らされ、女神のような神々しさを放っていた。


「……ああ。……本当に、美しいです、栞さん」


 湊は、恭しく彼女の手を取った。

 かつての彼は、元婚約者から「結婚してほしければ、もっと稼げ」「もっと尽くせ」と、際限のない要求を突きつけられていた。彼にとっての誠実さは、彼女という名のブラックホールを埋めるための代償でしかなかった。

 だが、今、自分の手を握り返す栞の指先からは、言葉にならない感謝と、対等な愛の重みが伝わってくる。


 誓いの言葉を交わす際、湊は栞の瞳を真っ直ぐに見つめ、一文字一文字を噛み締めるように口にした。


「……僕は、あなたに出会うまで、自分の誠実さが誰かの重荷、あるいはただの便利な道具だと思っていました。……でも、あなたを守り、あなたの物語を支える中で、初めて自分の人生を愛することができました。……生涯、あなたの隣で、あなたの為に最高の日常をデバッグし続けることを、ここに誓います」


 栞の瞳から、大粒の涙が溢れ出した。

 それは、過去の孤独を洗い流し、新しい未来を寿ぐ、祝福の雫だった。


 その厳かな儀式の最中、湊のスマートフォンが一度だけ、短く震えた。

 それは、弁護士からの「最終事後報告・完結」の通知だった。湊は、栞と指輪を交換した直後、彼女を抱き寄せる僅かな隙に、その画面を流し読みした。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は地方の更生支援施設で、テレビから流れる「九条栞、復活の裏側にあった愛」というドキュメンタリー番組を、ただ呆然と見つめているようです。……そこに映る、磨き抜かれた洋館の中で、自信と誇りに満ちた顔で微笑むあなた。……彼女は「あの誠実さは、私のためにあったはずなのに……」とうわごとのように繰り返しながら、自分の手を見つめて震えているとのこと。……彼女は今、自らがゴミのように捨てた「一途な誠実さ」が、実は世界で最も手に入らない救いそのものであったことを、骨の髄まで理解し、一生をかけて後悔という名の泥を啜り続けることになるでしょう。……これにて、私の物語も完結です』


 湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく「データの完全消去」を実行した。

 

 かつての彼は、彼女が泣けば自分の心を削ってでも笑顔にしようとした。

 だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生からパージ(排除)された、存在しないはずのデータの一部でしかなかった。

 

 彼が今、一途に注いでいるのは、腕の中で「久遠さん、愛しているわ」と囁く、この愛らしい女性の平穏だけだ。

 かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。

 

「……さあ、皆さんのところへ行きましょう、栞さん。……今夜は、僕たちが新しい家族になった、最初の夜ですから」


 湊は、栞の細い腰を抱き寄せ、若林たちが待つリビングへと向かった。

 

 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。

 

 雨降って、地固まる。

 過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に踏み出したのだ。


「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」

「……あなたが、一番幸せになれるものです。……一生かけて、作り続けますよ、栞さん」


 洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。


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