第31話:一途な富貴、あるいは正当なる報酬
映画『一途な守護者』の興行収入が、公開から一ヶ月を待たずして大台を突破した。
日本中の映画館で、孤独な作家と不器用な守護者の愛の物語が、観客たちの涙を誘っている。その熱狂は、黒燿館へと莫大な印税と、そして「理想の夫婦」という揺るぎない名声をもたらしていた。
だが、湊の日常は、あの日と何一つ変わることはなかった。
彼は、朝の六時に起床し、広大な庭を渡る風を吸い込みながら、栞の目覚めに合わせて最適な温度のスープを仕込む。SE時代、数百万のユーザーを抱えるシステムの安定稼働に心血を注いでいた彼は、今、愛する妻という「世界でたった一人のユーザー」の幸福を最大化することに、その全能力を最適化していた。
「……久遠さん、おはよ。……また、こんなに美味しそうな匂いをさせて、私を誘惑するんだから」
二階から、柔らかいガウンを羽織った栞が降りてくる。
かつての、幽霊のように青白かった彼女の面影はもうどこにもない。湊が管理する、栄養学に基づいた贅沢な食事と、深い安心感によって、彼女の肌は真珠のように滑らかに輝いていた。
「おはようございます、栞さん。……今日は、映画の大ヒットを記念して、若林さんからお祝いのシャンパンが届くそうです。……でも、その前に、まずはこの温かいポタージュで、身体のエンジンを温めてください」
湊は、恭しく椅子を引き、栞を席へと導いた。
彼女が一口スープを運ぶたびに、湊の心には、かつて元婚約者に搾取されていた時には一秒も感じることのできなかった「純粋な充実感」が満ちていく。
かつての彼は、自分の誠実さを「無料のインフラ」だと思い込み、踏みにじった者たちの犠牲になっていた。だが今は違う。彼の誠実さは、正当な愛と、そして莫大な社会的成功という形になって、彼と栞を包み込んでいた。
その穏やかな時間の裏側で、湊のスマートフォンが、静かに、そして冷徹に一度だけ震えた。
弁護士からの、事後報告――それは、湊という「誠実な黄金」を自らドブに捨てた者たちの、あまりに無残な現状だった。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は地方の加工工場の寮で、同僚たちが興奮気味に語る「九条栞の美談」を、耳を塞いで聞いているようです。……テレビのワイドショーで、あなたが栞さんのために整えた豪華な食卓や、二人で歩く幸せそうな姿が映し出されるたび、彼女は「あのご飯は、私が食べるはずだった。あのご褒美は、私のものだったのに……」と、畳を爪で掻き毟りながら嗚咽を漏らしているとのこと。……かつて彼女があなたに負わせた借金は、皮肉にも今のあなたが数時間で稼ぎ出す額よりも少なかった。……彼女は、自らが「世界で一番の幸運」を、目先の浅ましさで捨て去った事実に、一生後悔の毒に焼かれ続けるでしょう。……そして、あなたを使い潰した前職の上司と元同僚も、会社の不正が露呈し、今や見る影もなく没落しております』
湊は、その文章を最後まで読むと、一切の感情を排して「完全消去」を実行した。
かつての彼は、彼女が泣けば自分の人生を差し出してでも応えようとした。
だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生からデバッグ(排除)された、存在しないはずのデータの一部でしかなかった。
彼が今、一途に注いでいるのは、隣で「久遠さん、このスープ最高よ」と微笑む、愛する妻の横顔だけだ。
かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名前を呪おうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。
「……久遠さん、何を見ているの?」
「いいえ。……以前の場所で、僕がずっと心に引っかけていた不浄なものが、ようやくすべて消え失せたという報告です。……もう、僕が振り向くべき場所は、この食卓以外にありません」
湊はスマートフォンをポケットの奥深くに葬り去ると、栞の細い手を優しく、だが力強く握りしめた。
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも、どんな眩しい光にも崩せないほど、深く、そして黄金色に固まっていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「幸福」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に踏み出したのだ。
「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」
「……あなたが、一番幸せになれるものです。……一生かけて、作り続けますよ、栞さん」
洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。




