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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第32話:一途な旅路、あるいは新世界の色彩

 映画『一途な守護者』の熱狂が、社会現象として日本中を席巻し続けていた初夏の終わり。

 黒燿館の主夫、久遠湊は、慣れた手つきで重厚な革製のトランクを閉じた。

 中には、旅先での栞の健康を支えるための厳選されたサプリメントや、彼女の肌質に合わせた最高級のリネン、そして、万が一彼女が執筆意欲を覚えた時のための、手入れの行き届いた筆記具が完璧な配列で収められている。


「……久遠さん、そんなに荷物を詰め込んで、どこへ行くつもり?」


 リビングのソファで、湊が選んだリゾートドレスに身を包んだ栞が、可笑しそうにクスリと笑った。

 かつての彼女は、この屋敷の門を一歩出るだけで、目に見えない敵に怯える未亡人だった。だが今の彼女の瞳には、これから始まる「未知の景色」への純粋な好奇心が、少女のように宿っている。


「……新婚旅行ですよ、栞さん。あなたが以前、『いつか見てみたい』と言っていた、あの海辺の高原へ。……そこには、あなたの物語を邪魔するノイズも、あなたを値踏みする視線もありません。……あるのは、潮風と、僕が作る料理だけです」


 湊は立ち上がり、彼女を優しく、だが力強くエスコートした。

 彼にとって、この旅行は単なる遊興ではない。

 栞の人生から「過去の影」を完全にパージし、新しい「久遠栞」としての記憶で彼女を塗り替えるための、最も重要なデバッグの最終段階だった。


 旅先の高原。

 貸し切られたヴィラのテラスで、二人は沈みゆく夕日を眺めていた。

 眼下に広がる紺碧の海と、オレンジ色に染まる水平線。

 湊は、その絶景を背景に、地元で仕入れた新鮮な海産物をふんだんに使った、旅先ならではの「一途なディナー」を振る舞った。


「……信じられない。……世界って、こんなに広くて、こんなに鮮やかな色彩に満ちていたのね。……久遠さん、私……あなたに出会わなければ、一生、あの暗い書斎の中で、モノクロの夢を見続けていたわ」


 栞は、湊の手をぎゅっと握りしめ、幸せそうに目を細めた。

 湊は、その温もりを感じながら、ふと、ポケットの中で一度だけ震えたスマートフォンに意識を向けた。

 弁護士からの、これが本当に最後の「付随報告」――。

 湊は、栞がデザートのソルベに夢中になっている隙に、その画面を一瞥した。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は地方の加工工場の寮で、同僚たちが熱狂的に語る「久遠湊の主夫道」のテレビ特集を、ただ震えながら見ているようです。……磨き抜かれたヴィラで、世界一の作家である妻のために、優雅に、そして慈しむようにワインを注ぐあなたの姿。……彼女は、「あの手は、私のためにあったはずなのに。……あの愛は、私が独占していたはずなのに……」と、畳を血が滲むほど掻き毟り、精神の均衡を完全に失ったとのこと。……彼女は今、自らがゴミのように捨てた「一途な誠実さ」が、実は自分を女王に変えてくれたはずの唯一の魔法であったことに、今さら気づいて悶え苦しんでいます。……これにて、私の業務はすべて完了しました。二度と彼女が、あなたの人生という視界に入ることはありません』


 湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく「データの完全消去」を実行し、そのままスマートフォンの電源を永久に落とした。


 かつての彼は、彼女が泣けば自分の心を削り、将来を売り渡してでも応えようとした。

 だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生からデバッグ(排除)された、存在しないはずのバグの一部でしかなかった。

 

 彼が今、一途に注いでいるのは、隣で「久遠さん、このソルベ、とっても冷たくて甘いわ」とはにかむ、愛する妻の横顔だけだ。

 かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名前を叫ぼうとも、その声は、この高原を吹き抜ける清涼な風に乗って届くことは、もう二度とない。


「……ねえ、久遠さん。私、次の小説のラストシーン……この海の青を入れたいと思っているの」

「ええ。……あなたの紡ぐ言葉なら、きっと本物の海よりも美しく輝くはずですよ。……さあ、夜は冷えます。……中に入って、温かいハーブティーを淹れましょうか」


 湊は、栞の細い腰を抱き寄せ、静かなヴィラの中へと促した。


 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな巨大な力にも、どんな醜い悪意にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。


 雨降って、地固まる。

 過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、新しく、そして永遠に踏み出したのだ。


「……ねえ、久遠さん。……私、あなたを信じて良かった」

「……僕の方こそ。……僕の誠実さを見つけてくれて、ありがとう、栞さん」


 二人の影が、月明かりのテラスに重なり合い、一つになって伸びていた。

 洋館に戻っても、旅先であっても。

 二人の灯す明かりは、夜の帳の中でも、消えることなく静かに輝き続けていた。


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