表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

33/35

第33話:一途な日常、あるいは聖域の円熟

 新婚旅行から戻った黒燿館には、以前のような冷たい静寂ではなく、長年連れ添った夫婦のような、深く、そして温かな安らぎが満ちていた。

 湊は、旅の埃を一切感じさせないほど完璧に磨き直した廊下を渡り、キッチンへと向かう。彼の指先は、今や栞の体調や気分の僅かな揺らぎを、朝の空気の密度だけで察知できるほどに研ぎ澄まされていた。


「……九条さん、いえ、栞さん。旅の疲れは残っていませんか?」


 湊が淹れたての、芳醇な香りを放つ自家製ブレンドのコーヒーを差し出すと、ソファで新作の資料を整理していた栞が、柔らかく微笑んだ。

 彼女は、湊が旅先でプレゼントした、深い海の色をしたショールを愛おしそうに肩に掛け、その温もりに目を細めている。


「ええ、驚くほど体が軽いの。……あんなに外の世界を楽しめたのは、人生で初めてだったわ。……すべては、私の隣で、私の歩調に合わせて歩いてくれたあなたのおかげね」


 栞は湊の手をそっと取り、自分の頬を寄せた。

 かつての彼女にとって、日常は「耐え忍ぶもの」であり、執筆は「孤独な逃避」だった。だが今は違う。湊が整える朝食の匂いで目覚め、彼が管理する完璧なスケジュールの中で創作に没頭し、夜は彼の腕の中で安らぐ。

 その規則正しく、慈しみに満ちた日々が、彼女の物語にさらなる深みと、真実の重みを与えていた。


 湊自身もまた、この黒燿館での生活に、これまでにない誇りを感じていた。

 かつての職場で、数字と論理の整合性ばかりを追い求め、自分の心が摩耗していくのを感じていた日々。だが今、目の前には、自分が作った料理を食べ、自分が整えた空間で、世界を感動させる物語を生み出す一人の女性がいる。

 彼女の笑顔を守ること。それが、湊という不器用で一途な男が辿り着いた、人生の『最適解』だった。


 その穏やかな時間の裏側で、湊のスマートフォンの通知センターが、静かに、そして冷徹に震えた。

 弁護士からの、これが本当に最後となるであろう「事後報告・完結」のメッセージだ。

 湊は、栞が「次の章、少し読んでくれる?」と原稿を差し出した隙に、その無機質な画面を一瞥した。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は地方の更生施設で、自分の名前さえも捨て、無機質な番号で呼ばれる日々を送っているようです。……彼女は、施設で放映された「日本文芸大賞・受賞後の軌跡」という特番で、あなたが栞さんと共に、新婚旅行先の美しい海辺を歩く姿を見たとのこと。……かつてのあなたが自分に向けてくれていた、あの太陽のような誠実さが、今は別の女性を世界一の幸せ者にしている。……その残酷な事実に、彼女はついに、自分の手で自分を壊そうとするほど、深い絶望の淵に沈んだとのことです。……彼女が捨てたのは、一人の男ではなく、自分の人生を楽園に変えてくれたはずの「唯一無二の魔法」そのものであったことに、彼女は一生、後悔の闇の中で気づき続けることになるでしょう。……これにて、私の関与すべき過去はすべて、この世界からパージされました』


 湊は、その文章を最後まで読むと、一切の感情を排して「完全消去」を実行した。

 そして、スマートフォンの電源を落とすと、それをキッチンの引き出しの奥深くへと仕舞い込んだ。


 かつての彼は、彼女が泣けば自分の人生を投げ出してでも駆けつけただろう。

 だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生からデバッグ(排除)された、存在しないはずのデータの一部でしかなかった。

 彼が今、一途に注いでいるのは、隣で「久遠さん、この章の終わり方、どうかしら?」とはにかむ、愛する妻の声だけだ。

 

 かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名前を呪おうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。


「……栞さん。素晴らしいです。……この結末なら、読者はきっと、大切な人を守ることの本当の尊さに気づくはずですよ」


 湊は栞を優しく抱き寄せ、その誇らしい横顔を見つめた。

 

 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。

 

 雨降って、地固まる。

 過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に踏み出したのだ。


「……ねえ、久遠さん。明日の朝食は、何?」

「……あなたが、一番幸せになれるものです。……一生かけて、作り続けますよ、栞さん」


 洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ