第34話:一途な未来、あるいは聖域の継承
黒燿館に、また新しい季節の足音が聞こえてきた。
リビングの窓からは、湊が丹精込めて手入れをしてきた百日紅が、燃えるような紅い花を咲かせているのが見える。
湊は、キッチンの広大なカウンタートップに、これまでに栞のために作り続けてきた「一途なレシピ」をまとめたノートを広げていた。
それは単なる調理手順の羅列ではない。
その日の栞の顔色、筆の進み具合、あるいは彼女がふと漏らした「寂しい」という溜息。それらすべてをデバッグし、彼女の心に体温を灯すために最適化された、湊という男の誠実さの結晶だった。
「……久遠さん。また、私のために新しい魔法を考えてくれているの?」
書斎から降りてきた栞が、湊の背中にそっと身を寄せた。
彼女の指先は、今や迷いなく筆を走らせ、新作『一途な守護者』の続編は、前作を凌駕する熱量で書き上げられようとしている。
彼女が纏う空気は、かつての氷のような冷たさを完全に脱ぎ捨て、湊の愛という名の陽だまりに溶けていた。
「ええ。若林さんから提案があったんです。……九条栞を支える『守護者の食卓』として、僕のレシピを一冊の本にしないかって。……あなたが紡ぐ言葉と同じように、僕の料理もまた、誰かの孤独を温めることができるなら……それは僕にとって、最高の光栄ですから」
湊は振り返り、栞の頬を愛おしそうに撫でた。
かつての湊にとって、自分のスキルは「他人に利用されるための道具」でしかなかった。SEとして、あるいは婚約者の便利屋として。
だが今、彼は自分の誠実さが、愛する妻を輝かせ、さらにその先にある「読者」という見知らぬ誰かの心まで救おうとしていることを、静かな誇りとともに実感していた。
「……素敵だわ、久遠さん。あなたの誠実さは、もう私だけのものじゃないのね。……でも、私の隣にいてくれることだけは、誰にも譲らないわよ?」
栞は湊の首筋に腕を回し、少しだけ独占欲を滲ませて微笑んだ。
その甘やかな幸福の裏側で、湊のスマートフォンが、静かに、そして冷徹に一度だけ震えた。
弁護士からの、これが本当に正真正銘、最後となるであろう「事後報告・完結」のメッセージだ。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は地方の更生施設で、自分の名前さえも捨て、無機質な番号で呼ばれる日々を送っているようです。……彼女は、施設で放映された「日本文芸大賞・受賞後の軌跡」という特番で、あなたが栞さんと共に、映画の撮影現場を堂々と歩き、監督や俳優たちから尊敬の眼差しで見つめられている姿を見たとのこと。……かつてのあなたが自分に向けてくれていた、あの太陽のような誠実さが、今は別の女性を世界一の幸せ者にし、さらに社会的な賞賛まで浴びている。……その残酷な事実に、彼女はついに、自分の手で自分を壊そうとするほど、深い絶望の淵に沈んだとのことです。……彼女が捨てたのは、一人の男ではなく、自分の人生を楽園に変えてくれたはずの「唯一無二の魔法」そのものであったことに、彼女は一生、後悔の闇の中で気づき続けることになるでしょう。……これにて、私の関与すべき過去はすべて、この世界からパージ(排除)されました。……おめでとうございます、久遠様。これからは、振り返ることなく、あなたの聖域を守り続けてください』
湊は、その文章を最後まで読むと、一切の感情を排して「完全消去」を実行した。
そして、スマートフォンの電源を落とすと、それをキッチンの引き出しの奥深く――もう二度と開けることのない場所へと仕舞い込んだ。
かつての彼は、彼女が泣けば自分の人生を投げ出してでも駆けつけただろう。
だが、今の彼にとって、その女性の絶望も、その女性の涙も、既に自分の人生からデバッグされた、存在しないはずのデータの一部でしかなかった。
彼が今、一途に注いでいるのは、隣で「久遠さん、今夜はどんな魔法を食べさせてくれる?」とはにかむ、愛する妻の声だけだ。
かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名前を呪おうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることはない。
「……栞さん。今夜は、僕たちが初めて出会ったあの日、あなたが泣いて食べてくれた『あのパスタ』を、最高級の食材と、今の僕のありったけの愛を込めて作り直しましょう。……僕たちの、新しい物語の門出を祝して」
湊は栞を優しく抱き寄せ、その誇らしい横顔を見つめた。
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも崩せないほど、深く、そして温かく固まっていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に踏み出したのだ。
「……ねえ、久遠さん。……私、あなたを信じて良かった」
「……僕の方こそ。……僕の誠実さを見つけてくれて、ありがとう、栞さん」
洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そして強く照らし続けていた。
そこにはもう、凍えるような孤独も、利用されるだけの善意も、何一つ残ってはいなかった。




