第三十五話:一途な食卓、あるいは永遠の地固まり
黒燿館に、また新しい雨の季節が巡ってきた。
窓の外では、紫陽花が雫を湛えて鮮やかに色付き、古いレンガの壁を湿らせている。かつての湊にとって、雨はすべてを洗い流し、自分の居場所を奪い去る絶望の象徴だった。だが今、この洋館の屋根を叩く雨音は、二人だけの聖域をより深く、より静謐に守り抜くための子守唄のように聞こえていた。
「……久遠さん。また、あの日と同じことを考えているのかしら?」
背後から、柔らかなカシミアのショールを纏った栞が、湊の腰にそっと腕を回した。
彼女の指先には、今や迷いも震えもない。湊が整えてきた数年間の『日常』という名の魔法によって、彼女は日本を代表する作家としての地位を不動のものとし、一人の女性としても、大輪の花のような気品と余裕を身に纏っていた。
「……ええ。出会ったあの日も、今日のような土砂降りでしたね。空腹で行き倒れていたあなたに、僕が慌ててパスタを作った。……あの瞬間から、僕の人生のエラーはすべて、修正され始めたんだと思います」
湊は、栞の細く温かな手を、自らの大きな掌で包み込んだ。
かつての彼は、他人の悪意に疎く、誠実さを搾取されるだけの「便利屋」だった。元婚約者のわがままを叶え、借金を肩代わりし、最後にはゴミのように捨てられたあの泥濘の日々。だが、その雨が降り注いだおかげで、今の湊の足元には、誰にも侵されることのない強固な『地』が固まっている。
キッチンのカウンターには、湊が書き上げた『一途な主夫の献立帖』の重版見本が並んでいる。彼の誠実さは、今や栞だけでなく、世界中の読者の食卓をも温める光となっていた。
その穏やかな時間の片隅で、湊のスマートフォンには、既に解除されることのない「通知」が一つだけ届いていた。
弁護士の事務所から数年おきに届く、義務的な生存確認報告。湊はそれを、栞がキッチンの椅子に腰掛けた隙に、一瞬だけ確認した。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、現在は身寄りのない者たちが集まる地方の保護施設で、清掃作業員として働いているようです。……彼女は、施設のテレビで放映される「理想の夫婦・久遠夫妻」の特集を見るたび、自分がかつて手放した『本物の誠実さ』の正体に、今さら気づいて嗚咽を漏らしているとのこと。……「あの人は、私のために何でもしてくれたのに。……あの愛は、私のものだったはずなのに」という、届かぬ後悔だけを糧に、彼女は一生、泥の中を這い続けることになるでしょう。……これにて、私の関与すべき過去の残滓は、文字通り完全に消滅いたしました』
湊は、その文章を最後まで読むと、一切の迷いなく、そして一滴の憎しみも抱かずに、その「過去」をデータの宇宙へと永久に消去した。
憎しみとは、まだ相手に価値を見出している証拠だ。
今の湊にとって、元婚約者は、自分の人生という完璧なシステムからデバッグ(排除)された、一文字のノイズですらなかった。
彼が今、一途に注いでいるのは、窓辺で「久遠さん、お腹が空いたわ」と、世界で一番甘い声で呼ぶ、愛する妻の笑顔だけだ。
かつての婚約者が、泥沼の中でどれほど惨めに自分の名を呪おうとも、その声は、この高く強固な黒燿館の壁を越えてくることは、永遠にない。
「……お待たせしました、栞さん。……今夜は、僕たちが家族になったあの日と同じ、あのパスタですよ。……ただし、今の僕の、溢れんばかりの愛でさらに最適化されていますが」
湊が食卓に並べた一皿は、琥珀色の光を浴びて、宝石のように輝いていた。
一口含んだ栞の瞳に、温かな光が灯る。
「……おいしい。……やっぱり、あなたの隣で食べるご飯が、世界で一番、私の魂を温めてくれるわ。……愛しているわ、久遠さん。……来年も、再来年も、その先も。……ずっと私の隣で、この幸せを管理し続けてね」
「ええ。……承知いたしました、栞さん。……あなたの人生の物語が、永遠にハッピーエンドであり続けるよう。……僕は一生をかけて、あなたを愛し、守り抜きます」
誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。
二人の足元は、降り注いだ過去の雨のおかげで、もう誰にも、どんな醜い過去にも、どんな冷酷な悪意にも崩せないほど、深く、そして黄金色に固まっていた。
雨降って、地固まる。
過去という泥濘を完全に洗い流した二人の物語は、今、本物の「家族」という、眩いばかりの光の中へと、永遠に、そして一途に続いていく。
洋館に灯った明かりは、雨の夜の帳の中でも、二人だけの聖域を優しく、そしてこの上なく強く照らし続けていた。




