第8話:一途な防壁、あるいは血脈の侵入者
嵐の予感は、乾いた車のブレーキ音と共にやってきた。
黒燿館の重厚な門扉の前に停まったのは、いかにも成金趣味な黒塗りの高級セダンだ。
湊はキッチンの窓からその光景を静かに見つめていた。手には、栞のために淹れたばかりのハーブティーの入ったカップがある。
「……来ましたね」
独り言を呟いた直後、静寂を切り裂くように激しいチャイムの音が鳴り響いた。一度や二度ではない。怒りに任せて連打されるその音は、この聖域に対する明らかな宣戦布告だった。
「ひ、久遠さん……! あの車、亡くなった彼の叔父様だわ……!」
二階の書斎から駆け下りてきた栞は、顔を蒼白にさせて湊のシャツの袖を掴んだ。
その指先は氷のように冷たく、小刻みに震えている。
彼女にとって、九条家の親族は「恩人」の顔をした「支配者」だった。夫が遺した莫大な資産と、彼女が生み出す印税。それらを管理という名目で吸い上げようとする彼らに、彼女は長年、精神的に去勢されてきたのだ。
「大丈夫です、九条さん。あなたは奥の部屋で、耳を塞いでいてください。……あんなノイズ、聴く必要はありません」
「でも、叔父様はとても恐ろしい人で……。私、またあの方に罵倒されたら……」
「僕を信じてください。僕は、あなたの守り人ですから」
湊は栞の震える両手をそっと包み込み、体温を分かつように握りしめた。
そして、一途なまでの誠実さを「冷徹な決意」へと塗り替え、玄関へと向かった。
扉を開けると、そこには仕立ての良いスーツを脂ぎった体で着こなした初老の男が、顔を真っ赤にして立っていた。九条家の重鎮、九条徳三郎だ。
「貴様か! あの無礼極まりない書面を送ってきたのは! 栞を出せ! 亡き夫の法要を欠席するなど、九条家の嫁として万死に値する不敬だぞ!」
徳三郎の怒声がエントランスに反響する。
普通の人間なら、その威圧感に気圧されるだろう。だが、湊は無表情のまま、一歩も引かずに男の前に立ちふさがった。
SE時代、無理難題を押し付けるクライアントや、責任をなすりつけようとする上司を相手に、彼は何度も「論理」という壁を築いてきた。今の彼は、そのスキルをすべて「栞を守るため」だけに最適化している。
「あいにくですが、九条さんは現在、国家的な損失にも繋がりかねない重要な執筆の最終段階にあります。部外者の立ち入りは、たとえ親族であっても一切許可されておりません」
「部外者だと!? 私はこの家の主の叔父だぞ! 貴様のような、どこの馬の骨とも知れん『使用人』が口を出していいことではないわ!」
徳三郎が無理やり屋敷に足を踏み入れようとした。
湊は、その分厚い胸板を片手で静かに、だが岩のように不動の力で押し止めた。
「『使用人』ではありません。私は九条栞さんの全生活権、および外部接触の管理を委託された、専属の代理人です。……九条様、あなたが先ほどから仰っている『不敬』という言葉ですが、法的、あるいは民法的な根拠はどこにありますか?」
「な……根拠だと!?」
「あなたが強制的に彼女を連れ出そうとする行為は、刑法第二百二十三条の強要罪、および刑法第百三十条の住居侵入罪に該当する可能性があります。……既にこちらの会話は、防犯カメラと私のスマートフォンで全て録音・録画されています。今すぐお引き取りいただけない場合、即座に警察、ならびに九条さんの顧問弁護士に通報いたします」
湊の声は、低く、透き通るほど冷静だった。
感情を排除し、事実と論理だけで構成された言葉のナイフが、徳三郎の虚勢を次々と切り裂いていく。
「き、貴様……本気で九条家を敵に回すつもりか! 栞の印税が止まれば、この屋敷の維持だってできなくなるんだぞ!」
「その心配は無用です。九条さんの資産管理も、私が最適化を行いました。無駄な『親族への寄付』という名の流出を全てカットしましたので、この屋敷はあと三百年は維持可能です」
「な、なんだと……っ!」
湊は、懐から一通の封筒を取り出し、徳三郎の胸元に突きつけた。
それは、湊が徹夜でまとめ上げ、弁護士のリーガルチェックを通した「親族間贈与の解消と不当利得返還請求」の予告書だった。
「今まで九条さんが『情』で流してきた資金、すべて精査させていただきました。……これからは、一円たりとも無駄な金は流しません。お引き取りを。……さもないと、あなたの会社の脱税疑惑についても、私のSEとしての解析能力をフル活用して調査することになりますが?」
湊の眼鏡の奥で、冷徹な光が宿った。
それは、大切な人を傷つけるバグを、根こそぎ消去しようとするデバッガーの眼差しだった。
徳三郎は、言葉を失って震え、捨て台詞を吐きながら逃げるように車へと戻っていった。
静寂が戻った玄関。
湊が深く息を吐くと、物陰で震えていた栞が、弾かれたように飛び出してきた。
「久遠さん……! 凄いわ、あんなに怖かった叔父様が、あんなに情けなく……」
「……すみません、少し言葉が過ぎました。柄にもなく、熱くなってしまって」
湊がいつもの穏やかな顔に戻ると、栞はたまらず彼の胸に顔を埋めた。
「いいえ……かっこよかったわ。……私、初めて、自分が『九条家の所有物』じゃなくて、一人の人間なんだって思えたの。……ありがとう、久遠さん。あなたがいれば、私はどこまでも自由になれる」
湊は、震える彼女の頭を優しく撫でた。
その温もりを感じながら、ふと、ポケットの中で振動するスマートフォンに意識を向けた。
弁護士からの、いつもの「事後報告」だ。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、ついに闇金にまで手を出したようです。あなたの連絡先を売ろうとしたようですが、個人情報保護の壁に阻まれ失敗。現在は借金取りに追われ、廃ビルの一角で震えながら過ごしているとのこと。彼女は「湊さえいれば、こんなことにはならなかった」と、一晩中あなたの名前を呟いているそうですが……。まあ、自業自得という言葉すら生ぬるい結末ですね』
湊は、その報告を一瞥だにせず、画面を消去した。
かつての彼は、誰に対しても「誠実」であろうとして、結果として悪意ある者に利用されてきた。
だが、今は違う。
彼の「一途な誠実さ」は、愛する人を守るための、鋭利な刃を隠した盾となった。
洋館の外では、冷たい風が吹き荒れている。
だが、湊に抱かれた栞の心には、もう二度と、孤独という名の雨が降ることはなかった。
「……九条さん、温かいお茶を淹れ直しますね。それから、新作のプロットの矛盾、さっき見つけたので一緒に修正しましょう」
「ええ……! あなたとなら、どんな難解な事件も解ける気がするわ」
二人の足元で、新しい人生の礎石が、誰にも壊せないほど深く、強固に固まっていく音がした。




