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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第7話:一途な熱、あるいは聖域の綻び

 黒燿館の朝は、静謐な青い空気に満ちていた。

 湊は、キッチンの重厚な大理石のカウンターで、一人静かに豆を挽いていた。手動のミルが刻む規則正しいリズムが、広大な屋敷の静寂に心地よく溶け込んでいく。

 かつての彼は、朝食を抜いて満員電車に飛び込み、画面に流れる無機質なエラーログと格闘する毎日だった。だが今、彼の視線の先にあるのは、庭の木々に集まる小鳥の姿と、丁寧に磨き上げられた銀の食器たちだ。


「……おはよう、久遠さん。いい匂いね」


 背後から、微かな衣擦れの音と共に栞が現れた。

 彼女は、湊が新しく買い揃えた柔らかなシルクのガウンを羽織り、まだ眠気の残る瞳で湊を見つめている。かつての、幽霊のように青白かった肌には、今や健康的な赤みが差し、その美しさはさらに現実離れしたものとなっていた。


「おはようございます、九条さん。今日は少し冷え込みますから、カフェオレにしましょうか。ミルクをたっぷり泡立てた、特製です」

「ええ、お願い。あなたの淹れる飲み物は、どうしてこんなに……心の奥まで温めてくれるのかしら」


 栞はカウンターの椅子に腰掛け、湊の手捌きをうっとりと眺めた。

 湊は、ただ手順通りに動いているわけではない。

 彼は、栞がその日、どの程度の筆圧でペンを握り、どれほど深く思考の海に沈むかを、朝の表情一つで推察し、それに見合った「最適」な一杯を提供しようと心掛けていた。

 それはSE時代に培った、ユーザーの潜在的なニーズを汲み取る「仕様定義」にも似た、彼なりの一途な献身の形だった。


 だが、そんな穏やかな朝の空気は、一通の電話によって無惨に切り裂かれた。

 湊のスマートフォンではない。屋敷の奥に鎮座する、めったに鳴ることのない黒電話だ。


「……私が出るわ。若林君かしら、また何かトラブルでも起こしたのかしらね」


 栞が受話器を取る。しかし、次の瞬間、彼女の表情から血の気が引いていくのを、湊は見逃さなかった。

 彼女の手が震え、受話器がガタリと音を立てる。


「……ええ。……ええ、わかっているわ。でも、今は……」


 電話を切った栞は、力なく椅子に崩れ落ちた。

 湊は迷わず彼女の傍らに寄り、その冷え切った肩を抱き寄せた。


「九条さん。何があったんですか?」

「……亡くなった彼の、命日が近いの。親族から連絡があって……今年もまた、盛大な法要を行うから出席しろって。彼らは私の才能なんてどうでもいいの。ただ、『九条家の未亡人』としての体裁を整えたいだけなのよ」


 栞の瞳に、深い絶望の色が宿る。

 彼女にとって、亡き夫との思い出は大切だが、それを「義務」や「形式」で縛り付ける親族たちは、彼女の心を削り取る存在でしかなかった。

 夫が亡くなってからの数年間、彼女はこの屋敷で、親族という名の監視の目に怯えながら、孤独な戦いを続けてきたのだ。


「……行きたくないんですか?」

「ええ。行きたくない。あそこに行くと、私はまた『一人の人間』ではなく、『夫を亡くした哀れな女』に戻されてしまう。……せっかく、あなたと出会って、自分の足で立てるようになったのに」


 湊は、栞の震える背中を優しく、だが力強く摩った。

 かつての湊もまた、婚約者という名の呪縛に縛られていた。彼女の機嫌を損ねないように、彼女の期待に応えるために、自分自身の心を殺し続けてきた。

 だからこそ、今の栞の苦しみが、自分のことのように痛いほどわかった。


「行かなくていいですよ、九条さん」

「でも……九条家のしきたりが……」

「しきたりよりも、あなたの心が大切です。……僕が、断ります。あなたが今、どれほど重要な仕事をしていて、一分一秒を惜しんでいるか、論理的に説明して、二度と連絡してこないように手配します」


 湊の言葉には、揺るぎない確信がこもっていた。

 彼は、栞を「管理」すると決めたあの日から、彼女の盾になると誓ったのだ。

 たとえ相手が格式高い親族であろうと、彼女の平穏を乱すバグであれば、排除するのが自分の役割だ。


「久遠さん……。あなた、本当に……一途なのね。私のために、そこまで……」

「言ったはずですよ。僕は、あなたの守り人だと」


 湊は栞を落ち着かせると、すぐに書斎へ向かい、親族への断り状を作成し始めた。

 それは単なる拒絶ではない。栞がいかに社会的に価値のある仕事をしており、法要という形式的な行事よりも優先すべき「義務」があるかを、客観的なデータと法的根拠(弁護士の助言を仰ぎつつ)を交えて構成した、完璧な「防御壁」だった。


 作業に没頭する湊の横顔を、栞はドアの隙間から、祈るような目で見つめていた。

 彼女にとって、湊の背中は、どんな堅牢な城壁よりも頼もしく見えた。


 その日の午後。湊のスマートフォンに、弁護士からの追加報告が届いた。

 それは、物語の裏側で進行している、もう一つの「清算」の続きだった。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、ついに実家の親族からも「絶縁状」を叩きつけられたようです。彼女があなたから奪った金の使途……そのすべてが浮気相手との豪遊や無計画な浪費であったことが露呈し、彼女の母親はショックで寝込んでしまったとのこと。父親からは「二度と敷居を跨ぐな」と言い渡され、彼女は今、雨上がりの公園のベンチで、スマートフォンの充電さえ切れた状態で座り込んでいるようです。……滑稽なことに、彼女はまだ、あなたがどこかで自分を心配して探しに来てくれると信じているようですよ。……まあ、あなたが今、別の女性のためにその知略を尽くしているとは、夢にも思っていないでしょうが』


 湊は、そのメッセージを一読し、無言で削除した。

 

 かつての自分が、その女性のわがままを「可愛げ」だと思い、必死に守ろうとしていた過去。

 その一途な誠実さが、どれほど安売りされていたかを、今の彼は痛いほど理解している。

 本物の誠実さは、それを真に必要とし、尊んでくれる人のために使われるべきものだ。


 夕暮れ時。

 湊は、栞の好物である「金目鯛の煮付け」を、じっくりと時間をかけて作っていた。

 甘辛い醤油の香りが、洋館の隅々にまで行き渡り、冷え切っていた屋敷の空気を温かく塗り替えていく。


「……いい匂い。なんだか、お腹が空いてきちゃったわ」


 栞が、少し晴れやかな顔でキッチンに現れた。

 湊が作成した「親族への回答」を読み、彼女は心の重荷がふっと消えたのを感じたのだ。


「九条さん。今夜は、ゆっくり食べましょう。……法要の代わりに、ここでお二人で、亡くなった旦那様の話をしませんか? 形式的な儀式よりも、あなたの心の中にある思い出を、僕に聞かせてほしいんです」


 湊の提案に、栞は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに優しく微笑んだ。


「ええ。そうね……。彼もきっと、今の私を見たら、驚いて笑うと思うわ。……こんなに素敵な騎士様に守られている私を」


 外では、雨上がりの冷たい風が吹いていた。

 だが、黒燿館のダイニングには、琥珀色の柔らかな光と、温かな料理の湯気が立ち上っている。

 

 誠実すぎて損をしてきた男と、孤独に凍えていた未亡人。

 二人の「地」は、降り注いだ過去という雨を吸い込み、誰にも壊せないほど深く、強固に固まりつつあった。


 湊は、小皿に丁寧にお浸しを盛り付けながら、確信していた。

 これこそが、自分が求めていた、たった一つの「正解」なのだと。


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