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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第6話:一途な決別、あるいは新しい肩書き

 朝の光が、磨き上げられた黒燿館の廊下に長い影を落としていた。

 久遠湊は、慣れた手つきでアイロンを滑らせていた。広げられているのは、栞が大切にしているシルクのブラウスだ。かつてキーボードを叩いていた指先は、今や生地の僅かな皺も見逃さない「家事のプロ」のそれに変わりつつある。


 その時、手元のスマートフォンが短く震えた。

 退職代行サービスからの完了通知だ。


『久遠様。先ほど、貴殿の勤務先との退職手続きがすべて完了いたしました。会社側からは引き止めの声もありましたが、規定通り処理しております。離職票等の書類は、ご指定の住所(日暮荘)へ郵送されます。これにて、貴殿と前職との契約は一切終了いたしました。お疲れ様でした』


 湊は、小さく息を吐いた。

 これで、社会的な繋がりはすべて断たれた。

 かつて彼をボロ雑巾のように使い潰したデスマーチの日々も、深夜三時に鳴り響く障害対応の電話も、もう二度と彼を縛ることはない。


「……終わったな」


 独り言を呟くと、背後から柔らかな気配が近づいてきた。

 起きたばかりで髪を少し乱した栞が、湊の背中にそっと額を預けてきたのだ。


「……終わったの? あなたを苦しめていた、あの『会社』っていう場所との縁」

「ええ。正式に、無職になりました。これからは、九条さんの専属……ただの居候に近いかもしれませんね」

「居候なんて言わせないわ。あなたは、私の命の恩人で、世界で一番有能な『生活の魔術師』なんだから」


 栞は湊の腰に腕を回し、幸せそうに目を細めた。

 彼女にとって、湊が「外の世界」に戻らず、この洋館に留まってくれることは、何よりの福音だった。


「ねえ、久遠さん。お祝いに、今日はとびきり美味しいものが食べたいわ。……あなたが、心から『自分のために』作ってくれるものがいい」

「自分のため、ですか。……それなら、少し手間をかけてもいいでしょうか。九条さんを驚かせるような、最高の煮込み料理を作りますよ」


 湊は冷蔵庫を確認し、足りない食材を買い出しに行く準備を始めた。

 

 玄関を出る際、再びスマートフォンが震える。

 今度は、弁護士からの定期報告だ。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、ついにマンションを強制退去となりました。彼女は「湊が払うはずだ」と管理会社に泣きついたようですが、契約違反(無断居住および滞納)として一蹴されたとのこと。現在、彼女名義のクレジットカードはすべて止まり、スマホも通信制限がかかっているようです。……興味深いことに、彼女は最後に残ったわずかな現金で、あなたの居場所を突き止めようと興奮状態で各所に電話をかけているようですが、私のほうで完全にブロックしております。彼女は今、雨の中、数個の紙袋だけを持って街を彷徨っているようですよ。……まあ、あなたがかつて彼女のために用意した傘は、もうそこにはありませんが』


 湊は、その画面を無機質に眺めた後、迷わず電源を切った。

 

 かつての彼なら、雨に濡れる彼女を想像して、胸を痛めたかもしれない。

 だが、今の彼が案じているのは、スーパーの特売品の鮮度と、栞の夕食のメニューだけだ。

 「一途な誠実さ」は、注ぐべき相手を間違えなければ、これほどまでに強固な絆を生む。


 商店街を歩く湊の足取りは軽い。

 彼はもう、誰かのための「便利屋」ではない。

 一人の女性の「生きる糧」を守る、誇り高き主夫なのだから。


 数時間後。

 黒燿館のキッチンからは、赤ワインと香味野菜が溶け合う、芳醇な香りが漂い始めていた。

 じっくりと時間をかけて煮込まれた牛すね肉は、口の中で解けるほど柔らかい。


「……おいしい。……本当に、おいしいわ」


 食卓でスープを一口運んだ栞が、うっとりと頬を染める。

 

「九条さん。僕は、SEを辞めました。これからは、この家を……あなたを支えることだけを一途に考えて生きていこうと思います。……後悔は、させません」


 湊の真っ直ぐな言葉に、栞はグラスを置き、彼の両手を握りしめた。

 

「後悔なんて、するはずないわ。……だって、雨が降ったおかげで、私の世界はこんなに美しく、固まったんだもの」


 窓の外では、また静かな雨が降り始めていた。

 だが、洋館の二人は、もう寒さに震えることはない。

 温かな食卓と、互いを信じる心。

 それだけで、彼らの世界は、何よりも完璧にデバッグされていたのだ。


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