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引っ越した先の隣人は、生活能力皆無の絶世の美しき未亡人作家でした  作者: 寝不足魔王


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第5話:一途な祝杯、あるいは琥珀色の時間

 脱稿。その二文字が書斎に響いたのは、深夜二時のことだった。

 若林が狂喜乱舞しながら原稿を抱えて飛び出していき、嵐が去った後のような静寂が黒燿館を包み込む。

 湊は、達成感と疲労で椅子に沈み込んだ栞の肩に、温かい蒸しタオルをそっと置いた。


「お疲れ様でした、九条さん。素晴らしいラストでしたね。僕も思わず、読み耽ってしまいました」

「……ありがとう、久遠さん。あなたが、あの密室の矛盾を解いてくれなかったら、今頃私はまだ、冷たい床で這いずり回っていたわ」


 栞はタオルの温もりに目を細め、湊の手をそっと握った。

 執筆を終えた彼女の指先は、戦い終えた騎士のように、わずかに震えている。


「明日は一日、何もしなくていい日にしましょう。朝寝坊も、二度寝も、許可します」

「……ふふ。厳しい管理者ね。でも、そんなあなたに甘えるのが、今の私の特権かしら」


 翌日。湊は約束通り、栞を徹底的に甘やかすことにした。

 だが、ただ寝かせておくだけではない。彼は、栞が「作家」としてではなく、一人の「女性」として心からリラックスできる時間を提供しようと考えた。


 夕暮れ時。湊は中庭に面したテラスに、小さなテーブルと椅子を並べた。

 そこには、彼が数時間かけて仕込んだ、色とりどりのピンチョスや、自家製のローストビーフが並んでいる。

 そして、栞が亡き夫と愛飲していたという、琥珀色のヴィンテージ・ブランデー。


「……あら。これは、亡くなった彼が大切にしていた……」

「棚の奥で埃を被っていました。お祝いですから、開けてもいいかと思いまして」


 湊は丁寧にグラスを磨き、琥珀色の液体を注いだ。

 栞はそれを一口含み、長く、深い溜息をついた。


「……彼がいなくなってから、お酒の味なんて忘れていたわ。ただ、孤独を紛らわせるために、喉を焼くだけのものだった。でも、不思議ね。今のこの一杯は、とても甘くて、温かい」


 彼女は湊を隣に座らせ、沈みゆく夕日を眺めた。

 かつて彼女を縛り付けていた「未亡人」という重い鎖が、湊の作る「日常」という光の中で、少しずつ溶けていく。


「久遠さん。あなたは、どうしてそんなに優しいの? 誰かに裏切られて、すべてを奪われたのに……どうして、他人を信じられるの?」


 湊は、手元のハーブティーを見つめた。

 

「……信じているわけではありません。ただ、僕は『一途』でしかいられないんです。器用に立ち回ったり、疑ったりするコストをかけるくらいなら、目の前の人を笑顔にするために動くほうが、僕にとっては合理的ですから」


 その時、湊のスマートフォンが、マナーモードの振動を伝えてきた。

 栞に気づかれないよう、彼は画面を伏せていたが、内容は把握していた。

 先ほど届いた、弁護士からの「週報」だ。


『事後報告です。元婚約者の女性ですが、生活費の工面ができず、ついに身内にまで金の無心を始めたようです。しかし、湊さんへの仕打ちを知ったご両親から完全に縁を切られ、現在は格安のシェアハウス……という名のタコ部屋に身を寄せているとのこと。浮気相手の男も、彼女に借金があることを知るや否や、別の女性の元へ逃げ出したようです。……彼女、毎晩湊さんの番号に電話をかけているようですが、すべて着信拒否のログに残っております。今後も一切の慈悲は不要と判断し、淡々と民事訴訟の手続きを続行いたします』


 湊は、その内容を記憶の隅へと追いやった。

 かつての自分が、その女性の「生活の基盤」そのものであったこと。

 彼女が当たり前のように享受していた清潔な部屋、温かい食事、滞りない支払いのすべてが、湊の「一途な誠実さ」の上に成り立っていた虚飾の城だったこと。

 その城が崩れた今、彼女に残されたのは、自分自身の「無能」という名の荒野だけだ。


「久遠さん、どうかした?」

「いいえ。……風が少し冷たくなってきましたね。中に入りましょうか」


 湊は立ち上がり、栞の手を取った。

 その手は、出会った頃の冷たさが嘘のように、柔らかく温かかった。


「……ねえ、久遠さん。私、次の連載のヒロイン、あなたをモデルにしてもいいかしら?」

「えっ、僕ですか? ただの家事手伝いですよ」

「違うわ。……孤独な魔女の館に迷い込んだ、不器用で、誰よりも誇り高い『守護騎士』よ」


 栞は湊の腕に身を寄せ、幸せそうに目を閉じた。

 

 かつて誠実さを搾取され、捨てられた男。

 彼は今、この古びた洋館で、自分を必要としてくれる唯一無二の場所を見つけていた。

 

 雨降って、地固まる。

 過去の泥濘は、新しい二人の居場所を固めるための、必要な雨だったのだ。


「……明日の朝食は、何がいいですか? 九条さん」

「そうね……。あなたが隣にいてくれるなら、なんだって美味しいわ」


 洋館に灯った明かりは、夜の帳の中でも、消えることなく静かに輝き続けていた。


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