第4話:一途な守護者、あるいは聖域の管理人
黒燿館に「日常」という歯車が、かつてないほど滑らかに回り始めてから一週間。
湊の生活は、分刻みのスケジュールで構成されていた。
朝六時に起床し、広大な庭に面した窓を開けて換気を行う。栞が起きてくる八時までに、栄養バランスを考え抜いた朝食と、彼女が執筆中に口に含んでも指を汚さない「特製の一口サンドイッチ」を準備する。
そして、午前中は彼女が最も集中できる「聖域」――書斎の環境維持だ。
「……九条さん、失礼します。コーヒーを淹れ直しました」
「あ……ありがとう、久遠さん。助かるわ」
机に向かう栞は、もはや初日のような「行き倒れの美少女」ではない。
湊が整えた清潔な寝具で眠り、湊が作った食事で血色を取り戻した彼女は、今や冷徹なまでに鋭い、超人気ミステリー作家としてのオーラを纏っていた。
だが、その足元には、無意識に脱ぎ捨てられた片方の靴下。
湊は表情一つ変えず、それを拾い上げて洗濯物カゴへと入れた。
「午前中のノルマ、あと五ページですね。終わったら昼食です。今日は九条さんの好きな、蟹のクリームパスタですよ」
「……! あと三ページで終わらせるわ」
単純な動機付け(モチベーション管理)も、生活管理者の重要な任務だ。
湊が書斎を出ようとしたその時、重厚な玄関のチャイムが激しく打ち鳴らされた。
「九条先生! 九条先生、いらっしゃいますか! 〆切まであと三日です! 生きてますか!?」
扉の外から聞こえてくるのは、悲痛な叫び声。
栞の担当編集者、若林だ。
栞はビクッと肩を震わせ、湊の方を不安げに見上げた。
「……若林君だわ。彼、〆切前になると理性を失って、庭の塀を乗り越えてくるのよ」
「不法侵入ですね。対応してきます」
湊は冷静に玄関へ向かった。
扉を開けると、そこには髪を振り乱し、目の下に巨大なクマを作った三十代半ばの男性が立っていた。彼は湊を見るなり、幽霊でも見たかのように固まった。
「え……あ……誰ですか、あなた。泥棒? それとも、九条先生の新しい親戚の方……?」
「はじめまして。今月から九条さんの生活管理兼料理人を務めております、久遠と申します」
「せい……かつ……? 料理人……?」
若林は呆然と湊を見つめ、それから湊の後ろに広がる、磨き抜かれた廊下と、ほのかに香るアロマの匂いに目を剥いた。
「嘘だ……。あの、ゴミ屋敷のようだった黒燿館が……。あの、自動販売機とコンビニ弁当で命を繋いでいた先生が……。え、これ、僕の知ってる九条先生の家ですか?」
「九条さんは現在、執筆に集中されています。あと三十分で午前中のノルマが終わる予定ですので、それまでこちらでお待ちください」
湊は若林を応接室へと案内した。
そこもまた、湊の手によって完璧に整えられていた。
差し出された一杯のダージリン。若林はその香りを吸い込み、あまりの心地よさに涙ぐんだ。
「……信じられない。僕がここ数年、どれだけ先生の生活を立て直そうとしても、三日で元通りだったのに。久遠さん、あなた一体、何者なんですか?」
「ただの、お人好しな元システムエンジニアですよ」
湊は微笑み、手元のタブレットで栞の「進捗管理表」を若林に見せた。
そこには、文字数、残りのトリックの整合性チェック項目、そして脱稿予定日時が、ガントチャート形式で詳細にプロットされていた。
「これ……! これですよ、僕が欲しかったのは! 先生は天才ですが、計画性がマイナスなんです! あなたがいれば、僕たちはもう、先生の玄関前で夜を明かさなくて済む……!」
若林が湊の手を握りしめようとしたその時。
書斎の扉が開き、栞が晴れやかな表情で現れた。
「若林君、うるさいわよ。……久遠さん、終わったわ! 予定より十分早いでしょう?」
「お疲れ様です、九条さん。素晴らしいですね。ご褒美のパスタ、すぐに仕上げます」
湊がキッチンへ向かうと、栞は若林の方を向き、誇らしげに胸を張った。
「どうかしら、若林君。私の『守り人』は有能でしょう?」
「……有能なんてレベルじゃないですよ。先生、この人を手放したら、二度と人間らしい生活には戻れませんよ」
若林の言葉に、栞は一瞬だけ表情を曇らせた。
だが、すぐにいたずらっぽく微笑む。
「手放さないわよ。私、彼がいないと、もう靴下の履き方すら忘れちゃうもの」
その頃。
湊のスマートフォンには、弁護士から一通のテキストメッセージが届いていた。
『事後報告です。元婚約者の女性ですが、カードの不正利用(湊さんの名義であることを承知の上での利用)をカード会社が重く見て、法的措置に踏み切ったようです。また、彼女の住んでいたマンションは強制退去が確定。彼女の親族も、彼女の浪費癖を知り、絶縁を宣言したとのこと。……彼女、今頃は漫画喫茶を転々としているようですよ』
湊はパスタの麺を茹でながら、そのメッセージを消去した。
かつての自分が、その女性の笑顔を守るためにどれほど必死だったか。
今の自分には、もう思い出すことすら難しい。
湯気の中に立ち上がる、芳醇なソースの香り。
そして、ダイニングから聞こえてくる、栞と若林の明るい会話の声。
愚直なまでに一途な男が、自分の居場所を見つけた場所。
そこにはもう、凍えるような雨は降っていなかった。
「……お待たせしました。本日の昼食です」
湊が運んできた一皿は、単なる料理ではない。
それは、孤独だった天才作家に与えられた、確かな「生」の証だった。




