第3話:一途な契約、あるいは孤独の終わり
三日後。
黒燿館のリビングは、まるで魔法にかけられたかのような変貌を遂げていた。
かつて足の踏み場もなかった床には、磨き抜かれた重厚なフローリングが鏡のように鈍い光を反射している。埃を被っていたシャンデリアのクリスタルは一つずつ丁寧に拭き上げられ、窓から差し込む午後の陽光を複雑な虹色へと変えていた。
湊は、SE時代に培った「デバッグ」の精神を、この広大な洋館の清掃に注ぎ込んでいた。
彼にとって、放置されたゴミはプログラムのバグであり、機能していないキッチンは死んだサーバだった。それらを一つずつ「正常な状態」へと戻していく作業は、皮肉にも裏切られた心の傷を癒やす、唯一の没頭できる時間となっていた。
「……信じられないわ。ここ、本当に私の家かしら? 鏡の世界に迷い込んだみたい」
栞はダイニングチェアに深く腰掛け、信じられないものを見るような目で周囲を見回した。
彼女の目の前には、湊が用意した昼食が並んでいる。
ふっくらと炊き上がった土鍋のご飯。カツオと昆布で丁寧に出汁を取り、信州味噌を溶いた豆腐と若芽の味噌汁。メインは、湊が商店街で吟味してきた脂の乗った銀鱈の西京焼きだ。
さらに、小松菜のお浸し、出汁巻き卵、自家製の浅漬け。
彩り豊かな副菜が、栞の食欲を優しく刺激する。
「掃除のついでに、台所の在庫と期限切れの備蓄をすべて整理しました。九条さん、あなたの食生活はあまりに無頓着すぎます。賞味期限が三年前の缶詰が奥から出てきた時は、流石に肝を冷やしましたよ」
湊はエプロン姿のまま、手際よく布巾でテーブルの端を拭い、一冊のバインダーを差し出した。
そこには、今後一週間の献立予定表、清掃箇所の一覧、そして何より栞が驚いたのは――彼女の「執筆時間を最大化するためのタイムチャート」だった。
「九条さん。あなたは書くことにだけ、その魂を削ってください。それ以外の『生きるための瑣末な雑務』は、すべて僕が引き受けます。それが、僕がここにいる理由であり、僕の新しい『仕事』ですから」
栞はそのバインダーを受け取ると、細い指先で丁寧にページをめくった。
文字は整然としており、湊の誠実な人柄が滲み出ている。
彼女はふと、窓の外に目を向けた。かつて亡き夫が愛した庭園。夫が亡くなってからの数年間、彼女はこの家で、ただ「消費」されるだけの時間を過ごしてきた。
「……久遠さん。どうして、そこまでしてくれるの? 私、あなたにまだ一円も払っていないわ。普通の人なら、昨日のようなゴミ屋敷を見た時点で、警察を呼ぶか、二度と近寄らないはずよ」
湊は手を止め、真っ直ぐに栞を見つめた。
彼の眼鏡の奥にある瞳には、かつて元婚約者に利用されていた時のような、自信のなさは消えていた。そこにあるのは、自らの役割を全うしようとする、愚直なまでの「責任感」だ。
「……僕は、誰かに必要とされることでしか、自分の価値を証明できない不器用な人間なんです。前の場所では、その気持ちを、ただ都合よく吸い取られてしまいました。でも、九条さん……あなたの、あの涙は嘘じゃなかった。あの一杯のパスタを食べて、泣いてくれた。あんなに真っ直ぐに僕の料理を受け止めてくれた人は、人生で初めてだったんです」
湊は少し照れくさそうに視線を逸らし、キッチンのタイマーを止めた。
「それに、九条さんの書く物語を、昨夜少し読ませていただきました。……驚きました。あんなに冷徹で緻密な、一切の隙もないミステリーを書く人が、まさか冷蔵庫の中に大切な資料を保存するような人だとは思いませんでしたから」
「あ、あれは……暑かったから、冷やしておけばいいアイデアが浮かぶかなって……」
「浮かびませんよ。インクが滲んで読めなくなるだけです」
湊の短い、だが温かな突っ込みに、栞は「ふふっ」と声を立てて笑った。
この数年、この広い屋敷で、誰かと食卓を囲み、声を立てて笑うことなど一度もなかった。
「……ねえ、久遠さん。正式に契約しましょう。さっきのチャートに、大事な項目を付け足してほしいの」
栞は立ち上がり、湊の元へと歩み寄った。
彼女は湊の手を、自らの白い両手でそっと包み込んだ。
その指先は驚くほど冷えていたが、湊の手の温もりが伝わると、次第に赤みを帯びていく。
「お給料は、あなたが提示した額の三倍払うわ。その代わり、条件があるの。……『ずっとここにいてくれること』。私を、一人にしないこと。私はあなたを、単なる『便利屋』や『使用人』にはしない。私の人生の、たった一人の『守り人』として迎えたいの。いいかしら?」
湊はその言葉の重みを、喉の奥で噛み締めた。
「守り人」。
これまで誰からも向けられたことのない、絶対的な信頼。
「……承知いたしました。雇用主、九条栞様。あなたの生活と、その才能のすべてを、僕が責任を持って管理させていただきます」
二人がそんな穏やかな、だが魂を交わすような契約を交わしていた頃。
湊のポケットの中で、スマートフォンが震えた。
それはメールではなく、以前の生活で使っていた「共有家計簿アプリ」からの、けたたましい警告通知だった。
『【重要】残高不足により、以下の支払いが失敗しました:マンション更新料、電気料金、ガス料金、水道料金。至急、登録口座を確認してください』
湊は、その画面を栞に見えないように一瞬だけ確認し、静かに唇の端を上げた。
そのマンションは、元婚約者が「自分の家だ」と豪語していた場所だ。だが、契約の実態は、湊が連帯保証人となり、湊の口座から自動引き落としされる設定になっていた。
湊は引っ越しを決めたその日に、銀行口座を解約し、全額を新しい個人口座に移している。
今頃、彼女たちの元には、ライフラインの停止予告と、管理会社からの厳しい督促状が届いているはずだ。
湊がいれば、彼が深夜まで残業して稼いだ金で、人知れず処理されていたはずの「現実」が、容赦なく彼女たちに襲いかかっている。
「一途な誠実さ」という盾を失った彼女たちが、自分たちの無能さと向き合う時間は、これから永遠に続くのだ。
「久遠さん? 何か嫌な知らせ?」
「いいえ。……不必要な古いデータが、完全に消去されただけです」
湊は、迷いなくそのアプリをアンインストールした。
「さあ、冷めないうちに召し上がってください。午後は、書斎の資料整理を徹底的に行います。ABテストの結果……いえ、整理の順番を変えれば、もっと執筆に集中できる環境が作れるはずですから」
窓の外では、いつの間にか雨が上がり、透き通った青空が広がっていた。
かつて絶望の泥濘を歩んでいた男と、孤独という深淵で筆を振るっていた女。
二人の運命は、今、洋館の温かな食卓の上で、二度と離れないほど強固に固まろうとしていた。




