第2話:一途なデバッグ、あるいは生活の再構築
翌朝、久遠湊は慣れない天井を見上げて目を覚ました。
築四十年のアパート『日暮荘』の一室。昨夜、隣の洋館で倒れていた女性――九条栞を救い、勢いで「生活管理」を引き受けてしまったのは夢ではなかったらしい。
「……まずは、現状の把握からだな」
湊はSE時代からの癖で、独り言をつぶやきながら起き上がった。
彼は「愚直なまでに一途」な男だ。一度引き受けた以上、中途半端なことはできない。たとえそれが、得体の知れない美しき未亡人からの突拍子もない依頼であってもだ。
身支度を整え、共有通路を抜けて隣の『黒燿館』へと向かう。
昨夜は雨で見えなかったが、朝の光に照らされたその屋敷は、壮麗さと荒廃が同居する奇妙な美しさを放っていた。手入れの届いていない庭には雑草が茂り、蔦がレンガの壁を這っている。
「失礼します、九条さん。久遠です」
昨日と同じく半開きの玄関を抜け、リビングへと足を踏み入れた。
そこには、昨夜パスタを食べた後、ソファで力尽きて眠ってしまったのであろう栞の姿があった。
「…………すぅ……すぅ……」
膝まである黒髪をシーツのように纏い、丸まって眠る姿は、三十九歳という年齢を感じさせないほどに幼く見える。だが、その周囲を囲む景色は、やはり「地獄」そのものだった。
散乱した資料。中身の干からびたコーヒーカップ。数週間分はありそうな未開封の郵便物。
湊は静かに袖を捲り上げた。
彼にとって、この惨状は「複雑に絡み合ったスパゲッティコード」のように見えた。どこから手をつければいいか、論理的に順序を立てれば、自ずと答えは見えてくる。
「……まずは、可視化から始めよう」
湊はまず、キッチンのシンクに溜まった洗い物を取り除き、清潔な作業スペースを確保した。次に、リビングのゴミを分別し、生活導線を確保する。
二時間後。ゴミ袋が五つほど玄関に並んだ頃、ソファの主がゆっくりと身じろぎした。
「……ん……。……だれかしら。泥棒なら、印税の振り込み口座は別の場所よ……」
寝ぼけ眼で栞が起き上がる。乱れた髪の間から覗く瞳が、驚きに大きく見開かれた。
「あ、あら。昨日の、神様……?」
「おはようございます、九条さん。今日から生活管理を任されました、久遠です。それと、僕は神様じゃありません」
「そうだったわね……。あまりに部屋が明るいから、天国かと思っちゃった」
栞はふらふらと立ち上がり、整理されたテーブルを見て感嘆の声を上げた。
「すごいわ……床が見える。私の家って、こんなに広かったのね」
「感心している暇はありません。九条さん、顔を洗ってきてください。その間に朝食を作ります」
湊の声は穏やかだが、妥協を許さない響きがあった。
栞は「はい……」と素直に従い、洗面所へと消えていった。
朝食は、冷蔵庫の奥に辛うじて生き残っていた卵と、湊が持参したパンで作ったフレンチトーストだ。
席に着いた栞は、一口食べるごとに「ふふっ」と幸せそうに喉を鳴らした。
「久遠さんの作るものは、どうしてこんなに優しい味がするのかしら。前の夫も、料理はしてくれたけれど……もっと、なんていうか、『義務感』があった気がするわ」
「僕はただ、手順通りに作っているだけですよ」
「それがいいのよ。あなたの手には、迷いがないもの」
栞はそう言って微笑むと、急に真剣な顔をして湊を見つめた。
「ねえ、久遠さん。私、今抱えている長編のトリックがどうしても解けなくて、ここ一週間まともに寝ていないの。……手伝ってくれる?」
「……ミステリーのトリックを、ですか? 僕は専門外ですが」
「いいの。あなたのその、真っ直ぐな視点が必要なのよ」
食後、湊は栞の書斎へと案内された。
そこはリビング以上の修羅場だった。壁一面のホワイトボードには、複雑な人間関係図と謎の記号が書き殴られている。
「この密室の中で、被害者はどうやって消失したのか……。あらゆる可能性を検証したけれど、どれも論理が破綻してしまうの」
湊はホワイトボードの前に立った。
複雑な条件の羅列。A地点からの移動時間、目撃者の証言、物理的な制約。
SEとして培った論理的思考が、勝手に情報を整理し始める。
「……九条さん。この被害者の移動経路、ここが重複していませんか?」
「えっ?」
「目撃者の証言AとBを前提にすると、この『空白の五分間』に被害者がここにいるのは物理的に不可能です。でも、もしこの証言Bが『意図的な嘘』ではなく『勘違い』だとしたら……」
湊はマーカーを手に取り、図を書き換えていく。
絡まった糸を一本ずつ解くように、無駄な条件を削ぎ落とし、最短の論理ルートを導き出す。
栞は息を呑み、その様子を凝視していた。
「……そうか。鏡よ……。鏡の反射で、目撃者は『自分自身』を被害者だと誤認した……! これなら、すべての矛盾が消える!」
栞の顔に、少女のような輝きが戻った。
彼女は湊の腕を掴み、興奮気味に顔を近づける。
「すごいわ、久遠さん! あなた、天才じゃないかしら!?」
「いえ、僕はただ、おかしな箇所を指摘しただけです」
「それが一番難しいのよ! ああ、書ける……これなら今夜中に書き上げられるわ!」
栞はそのまま机に向かい、猛烈な勢いでキーボードを叩き始めた。
執筆モードに入った彼女の周囲には、他者を寄せ付けない気迫が満ちている。
湊はその背中を見届け、静かに書斎を後にした。
リビングに戻ると、スマートフォンが震えた。
画面には、昨日届いたのと同じ、弁護士の名前が表示されている。
『久遠様。元婚約者の方から、何度もあなたの連絡先を教えろと電話が入っております。「名義変更の手続きができない」「生活費が引き落とされていない」とパニックになっているようですが、当然ながらすべて撥ね付けております。彼女は現在、家賃滞納により管理会社から最終通告を受けた模様です。事後報告まで』
湊は、その文章を無表情で読み流した。
かつての自分なら、「大丈夫だろうか」と心配して連絡を取ってしまったかもしれない。だが、今の彼には、守るべき場所がここにある。
書斎から聞こえる、リズミカルな打鍵音。
それは、彼が生まれて初めて「自分の意志で支えたい」と思った、一人の女性が奏でる生命の鼓動だった。
「……さて。次は、お風呂掃除かな」
湊はスマートフォンをポケットに仕舞うと、再び袖を捲った。
元婚約者の自業自得な末路よりも、目の前の一枚の皿を洗うこと。
それが、愚直な男の選んだ、新しい生き方だった。




