第1話:雨降る街の、空腹な隣人
叩きつけるような雨が、安物のビニール傘を激しく鳴らしていた。
三十二歳、独身。職業、システムエンジニア――だったもの。
久遠湊の手元に残されたのは、片手で持てる程度のボストンバッグ二つと、スマートフォンの画面に表示された弁護士からの無機質なメールだけだった。
『……というわけで、元婚約者、および浮気相手への慰謝料請求、ならびに共有財産の差し押さえ手続きを正式に受理いたしました。以降、相手方からの接触はすべて私を通すよう手配済みです。久遠様は、どうか心安らかに新生活をお始めください』
心安らかに、か。
湊は自嘲気味に息を吐いた。
五年間、信じて尽くしてきた女性がいた。彼女の笑顔が見たくて、デスマーチ同然の深夜残業も厭わず、給与のほとんどを「二人の結婚資金」として彼女の口座に振り込み続けてきた。
だが、その金で彼女が買い揃えていたのは、別の男との結婚式の衣装だった。
「湊さんは、本当に便利で……愚直なまでに一途よね。助かったわ」
最後にかけられた言葉を思い出すたび、胸の奥が冷たく焼ける。
彼女名義で借りていたアパート(家賃は湊払い)を追い出され、仕事も限界を迎えて退職した。
辿り着いたのは、都心から一時間ほど離れた郊外。家賃三万円、築四十年の木造アパート「日暮荘」の一階角部屋だ。
「……さて。まずは荷解きからかな」
カビ臭い六畳一間にボストンバッグを置く。
窓の外を見れば、隣には高いレンガ塀に囲まれた広大な屋敷が建っていた。鬱蒼とした庭木が雨に濡れ、まるでお伽話に出てくる魔女の館のような、浮世離れした重厚な洋館だ。
表札には『九条』と刻まれている。
あまりの格差に苦笑いしながら、湊は濡れた眼鏡を拭いた。
腹が鳴った。
そういえば、朝から何も食べていない。
引っ越し初日くらいは何か温かいものを食べようと、湊は台所に立った。
カセットコンロと小鍋を取り出す。
前の家から持ってきたのは、わずかな調味料とパスタ、そして実家から送られてきた出汁パックくらいのものだ。
その時だった。
雨音に混じって、隣の洋館の方から、微かな声が聞こえてきた。
「……けて……たすけて……」
湊の手が止まる。
空耳だろうか。だが、声ははっきりと続いた。
「だれか……おねがい……もう、限界なの……」
消え入りそうな、女性の声だ。
事件か、事故か。
普通の人間なら、ここで警察に通報するか、関わらないように扉を閉めるだろう。
だが、久遠湊という男は、良くも悪くも「愚直」だった。
困っている声を無視できない。その一途なまでの誠実さが、彼を雨の中へと踏み出させた。
「すみません! 大丈夫ですか!?」
レンガ塀の隙間から、洋館の庭へと入り込む。
玄関の重い扉は、なぜか半開きになっていた。
中に入ると、ひんやりとした空気と共に、墨汁と古い紙の匂い、そして――耐え難いほどの「生活の崩壊」の臭いが鼻を突いた。
廊下には原稿用紙が散乱し、いつのものかわからない資料の山が壁を作っている。
その惨状の奥、広いリビングの中央で、一人の女性が倒れていた。
「あ……ああ……」
湊は駆け寄り、彼女の体を抱き起こした。
息を呑むほど、美しい女性だった。
年齢は三十代後半だろうか。透き通るような白い肌に、膝まで届きそうな長い黒髪。
彼女は、夫の形見だろうか、ひどく大きすぎるサイズのカーディガンを羽織っていた。
だが、その頬はこけ、唇は乾ききっている。
「しっかりしてください! 今、救急車を――」
「だめ……呼ばないで……恥ずかしいから……」
女性は弱々しく、湊のシャツの袖を掴んだ。
その指先は驚くほど細く、力がない。
「それより……何か……なにか、食べ物を……」
「食べ物、ですか?」
「もう三日……お水しか……飲んでなくて……〆切が……殺しに来るの……」
事件でも事故でもなかった。
ただの、極限状態の空腹だ。
湊は混乱したが、彼女の瞳に宿る切実な光を見て、体が先に動いた。
「……待っていてください。すぐ、何か作ってきます」
自分のアパートへ走り戻り、カセットコンロと小鍋、パスタ、それから卵を一つ掴んで洋館へと引き返す。
幸い、洋館のキッチンは広かった(もっとも、埃を被って機能していなかったが)。
湊は手早く鍋に湯を沸かし、出汁パックを破って粉末を直接投入する。
パスタを半分に折って茹で、そこに醤油と少しの砂糖、最後にかき混ぜた卵を流し込んだ。
即席の『かきたま出汁パスタ』だ。
香ばしい出汁と卵の匂いが、殺伐とした洋館の空気に広がっていく。
「さあ、ゆっくり食べてください」
リビングのソファに彼女を座らせ、ボウルに入れた温かい麺を差し出す。
彼女――九条栞は、震える手でフォークを持つと、夢中で口に運んだ。
「…………っ!」
一口食べた瞬間、彼女の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
「おいしい……温かい……。ひとの、作ったものの味がする……」
「そんなに泣かなくても。ただのパスタですよ」
「違うわ……。私、もう、一人で死ぬんだって思ってたの。書かなきゃいけないのに、動けなくて……」
彼女は一心不乱にパスタを完食すると、ようやく人心地ついたのか、深いため息をついた。
濡れた黒髪をかき上げる仕草には、どこか現実離れした艶っぽさがある。
「助かったわ……。あなた、どこの神様? それとも、天国からの出前?」
「いえ、今日隣に越してきたばかりの、久遠といいます。……九条さん、でしたっけ。一人暮らしなんですか?」
「ええ。夫は、数年前に死んでしまったから。それからはずっと、この家で一人……。普段は、もっとちゃんと生活してるのよ? 本当よ?」
湊は周囲を見回した。
積み上がったコンビニ弁当の空き殻(数週間前のものに見える)、山積みの資料、ゴミ袋の群れ。
とてもではないが、普段から生活できている人間の部屋ではない。
「……正直に言っていいですか」
「なに、かしら」
「このままだと、次の〆切の前に、餓死しますよ」
湊の言葉に、栞は図星を突かれたように肩を震わせた。
彼女は天才ミステリー作家・九条栞として名を馳せているが、その実態は、書くこと以外の一切を放棄した、生活能力壊滅状態の「迷子」だった。
「……ねえ、久遠さん。あなた、お仕事は何をされているの?」
「今は、無職です。今日、会社を辞めてきたばかりで」
「そう……。じゃあ、名案があるわ」
栞はふらつきながら立ち上がると、湊の眼前に指を突きつけた。
その瞳には、執筆モードに入った時のような、奇妙なまでの熱が宿っている。
「私を、管理して。私のために、ご飯を作って。この家を、人間が住める場所にしてほしいの」
「えっ、いや、それは……」
「お給料は、あなたの前職の倍出すわ。住み込みでもいい。……お願い、私、あなたが作るものを食べて、生きたいの」
あまりに唐突な提案だった。
だが、湊は彼女の掴んできた指が、まだ小さく震えていることに気づいていた。
亡き夫が遺した巨大な洋館で、才能という怪物に食われながら、たった一人で朽ち果てようとしていた女性。
愚直なまでに一途な湊は、その震えを、見捨てることなどできなかった。
「……倍なんて、いりません。僕も、行く当てがなくて困っていたところですから」
窓の外では、雨が激しさを増している。
だが、洋館のキッチンに灯った小さな火だけは、静かに二人の影を照らしていた。
これが、後に伝説の作家・九条栞を支えた「最強の主夫」誕生の瞬間であったことを、まだ誰も知らない。




