第31話
「このレシピノートは……糸のお母さんが書いたものだよね。表紙に貼っている写真の赤ちゃんは、もしかして糸?」
「たぶん、私だろうね。それよりもマカナ……人の物を勝手に持っていくのは、流石に人が悪いよ」
ノートが無くなったことに気付かない私も私だけど、あの呪物を勝手に持ち出してはいけない。マカナの身に不幸な出来事が降り注いでしまいそう。
「その点はたしかにゴメン。言い訳にすらならないけど、一応……糸のファザーからレシピノートを借りる許可はもらっていたよ」
「やっぱり、お父様もこの件に関わっていたんだね」
問題はどこまでマカナが知っているのか。お父様と話しあったのなら、あの人についてマカナへ話していない事情も大体知っていそうだ。
「あっ、でも糸のファザーを責めないであげて。アウが無理やり聞き出したせいだから。それに、糸のファザーも悩んでいたみたいだったし」
「だろうね」
お父様へ言いたいことがふつふつと湧いてきたけど、いったん飲み込む。もともとあの人が蒸発して……今となってはお父様と私の中で終わった話しなのだ。
事故で亡くなってからも、私達を振り回してくるあの人が全部悪い。
ああ……ただ、今日の昼からお父様へ送ったメッセージぐらいは既読にしてほしかったかな。余計なことを伝えないために、あえてメッセージを読んでなさそう。
「実はね、昼ごろからお父様にマカナが泊まりにくることをメッセージで伝えているのだけど、返信どころか、既読すらついていないのよね」
「へぇ。珍しいこともあるんだ」
「昨日の時点で、マカナが今日泊まることをお父様と示し合わせていたでしょ?」
たぶん、昨日マカナが家でお父様と会っていたのは、このノートのせいなのだろう。
……でも、わざわざノートを持ち出した理由が分からない。書いてある文量も、私の家ですぐに読み切れる程度しかないし。
いまいちマカナの目的が掴みきれなくて歯痒い。
「……今日とは決まっていなかったよ。結果的には、今日になったけどね」
答えを出すための材料は手元に揃っているはずなのに、曇りきった頭では完成予想図にピンとこない。調理の手順で致命的な見落しをしている感覚。
「結局のところ、マカナはそのレシピノートについて何を私から聞きたいの? もう、お父様から大体のことは聞いたのでしょ?」
「うん。糸のお母さんが、その……交通事故で、亡くなっていたことを聞いた。後は……糸のお母さんに、糸とは別に娘さんがいたことも」
こめかみに鈍い痛みが走った。知っていたことは、あの人が亡くなっていたことだけじゃないのか……
だとしても、マカナが私の家に泊まりたい理由には結びつかない。言葉の続きを聞きたくて、右手をマカナに向け、どうぞのポーズを取る。
「糸は周りに迷惑をかけたくないあまり、悩みを自分で抱え込んじゃう性格なのは分かっていたんだ。悩みの種が糸のお母さん絡みだということも……すぐに推測できた。でもね…………」
一度目線を下にそらし、呼吸も止めて、感情を溜めている。肩も震えており、よほどマカナにとって言いづらいことなのだろう。
向き合う先の緊張が私にも伝わって、どんなことを告げられたとしても、マカナから逃げたくないという気持ちの覚悟だけはこっちもできた。
「糸のお母さんのことで、糸が……どうしてそこまで自分を追い込んでしまっているのか……そのことが、アウには分からなかったんだ」
「私が……自分自身を追い込んでいる?」
予想外のところから頭を殴られたみたいで、思考が真っ白になる。実際に頭を殴られたことはないのだけど、それぐらいの衝撃があった。
「最近の糸は食事をちゃんと食べていないし、睡眠も全然取れていないでしょ」
自覚症状は……ある。
あるのだけど、これの原因を突き詰めてしまうとマカナに繋がってしまう。マカナに向ける閉じ込めたい感情は、あの人のせいではなく……私なのだから。
「ちょっとね。ここ数日だけだよ」
「ちょっとどころじゃないでしょ。一ヶ月近くは無理している。糸のファザーもアウと同じ感想だったし。たぶん、麦島さんあたりも察していると思うよ」
お父様は普段から私を気遣ってくれているので、特段心配している素振りがなくて油断していた。そりゃ、一緒に暮らせていたら私の不調ぐらい分かるよね。
麦島さんも最近は料理同好会の活動で、私のミスや不注意をカバーしてくれていた。気付いていないだけで、他にもご迷惑をおかけしていそう。
発端はあの人のせいかもしれないが、そこから体調を崩した原因については……自分自身で嫌というほどに分かっている。この期に及んでチンケな私が。
「心配してくれてありがとねマカナ。そうね、病院に——」
「違うの。違うんだよ糸。たしかに、病院へ行くことも大切かもしれない。だけど……」
マカナは立ち上がり、テーブルの上に置かれた私の手を、掬い上げるように包み込む。
テーブルを挟んで距離をつくっていたはずなのに、ハワイから日本へ飛んで戻ってきたかのように。
「アウを信じて欲しい」
あぁ、ダメだ……
視界が歪む。
幼い私の後ろでくっついていたマカナ。
目標を目指して走り続けてきたマカナ。
勇気を振り絞って私と向き合うマカナ。
全てのマカナが重なって見える。
「糸が押し殺して我慢してきたことをさぁ、アウに聞かせてよ。きっと大丈夫だから」
『きっと大丈夫だから』という言葉とは裏腹に、包み込んでいる手は震えていた。だからこそ、信じたい。私もマカナのことを信じてみたい。
「……私ね」
「うん」
罪の告白をするかのように、胸の内から口へ言葉が滴り落ちていく。いや——
「イヤ、イヤイヤイヤイヤイヤァッ」
喉元で大きく淀んだ言葉が詰まり、苦しくなってマカナの手も振りほどく。今まで座っていたイスも、私が立ち上がった勢いで倒れて消えた。
「落ち着いて糸。アウは絶対に離れないから! だって」
「……オハナだから? 例え、家族でもあっさり縁を捨てられることもあるのに。そんなもの……終わるときは一瞬だよ」
やっぱり自分が嫌いだ。こんなことを声をあらげてまで言いたくなかったのに。マカナが大切にしていることを傷付けてしまうなんて……
「糸の言うとおりかもね。アウのお母さんとお父さんも一時期、仕事と家の都合で離婚しそうになったぐらいだし。……だからさ、そんな苦しそうな顔をしなくても大丈夫だよ」
「なんで……マカナの大切にしようとしていることを、否定したのに……許すどころか、心配までしてくれるの?」
先に否定したのは私だけど、思い出のベンチで交わしたオハナの誓いまでも否定されているようだ。
「アウはさ……けっこう欲張りなんだよね」
「マカナはそんなことないよ」
欲張りというのなら、私ぐらいドス黒く濁った人を指すだろう。
「アウは、糸との関係性に特別な呼び名が欲しかったの。幼馴染や大親友より親密な呼び名。それが、オハナだったというまでのこと。後は……糸の苦手に思っていそうな家族を、アウが上書きしたかったこともあるかな。……ちょっぴり」
「そう……だったの」
あまりにも真っ直ぐ気持ちを伝える姿が眩しい。
そして……マカナからの愛を全て、自分にとって都合の良いように解釈しそうな私があさましい。
「隣りに糸が居てくれるだけで、これ以上ないほどにアウは幸せなの。糸がオハナで嫌な思いをするなら、アウも別にオハナなんていらないんだよ」
不思議とマカナが私のために捨てようとしたオハナが輝いて見えた。相変わらず、私にとっては信じきれないものだが、マカナの想いを知ってしまったから。
「わ、私は別に……」
「ねぇ糸。将来さ、もしもの話し。これから先の未来で糸に家族ができても、できなくても……アウが糸の隣りに居てくれることを許してくれる?」
許すも、何も……マカナが隣りに居てくれるのかは、私が決めていいものではない。マカナが私を見限って、捨てるのならまだしも。
「やさしいよ。本当に、マカナは優しい。私なんかと違って」
「糸のおかげだよ。何回でも、何十、何百と……例え糸が聞き飽きようとも言い続けるけどね」
一歩、一歩。マカナは私に歩み寄ってくる。テーブルで回り道をしても、絶対に目標へたどり着いて見せた。
「…………今一番さ、糸が許せないのはだれ?」
「マ、マカナのことが好きで、好きなあまり……私だけのマカナにしたいの! でも、そんな勝手な自分が大嫌い。マカナからのオハナを信じきれない私自身が、私とお父様を捨てたあの母と同じくらいに許せない」
いざ言葉にするとあっという間。淀みに淀んでいた体から力が抜けて、その場へ崩れ落ちそうになる。
だが、崩れ落ちる寸前のところで、マカナが受け止め、支えてくれた。怪我している右腕で、私の背中へ手を回し、安堵の笑みを浮かべながら。
マカナに顔向けできない情けなさで、逃避するためにまぶたを閉じる。もう……煮るなり、焼くなりしてほしい。
となれば、閉じた目以外の五感は敏感になるもので。唇に何かが触れた。
「……んっ…………んッ!?」
唇どころか口の中まで割って入ってきて、脳まで響く惚けるような甘さから抜け出し、目を開けると……私の味わっているマカナが目の前にいた。




