最大のバグ
ドロテアに旅立つ前、エルザが最後に立ち寄った場所は王都の図書館の地下にある禁書庫だった。
そこに忍び込んだエルザは自分の脳内にあるデータベースを完璧に補完するため、失われた古代の演算言語を検索しに来ていた。
薄暗い書庫の奥を歩いていると一人の青年とエルザは衝突した。
[自動防御システム:起動]
[警告:衝突回避予測…失敗。対象の動きに“予備動作”がありません]
「痛っ…!ごめん、本に夢中で気付かなかったんだ。怪我はないかい?」
ぶつかった彼は心配そうに尻餅をついてしまったエルザへと手を差し伸べた。
その時だ。
エルザが視界の異常に気付いたのは。
通常の場合、エルザが人を見れば、その服装や筋肉量、視線の動きから“次に何をするか”が数千パターン表示されるはずだった。
しかし、彼を前にしたエルザの網膜には“NO DATA AVAILABLE”の文字が点滅するのみ。
エルザはこの世界で初めて戸惑いを覚えた。
「…何者ですか、あなたは。何故、私のスキャンを弾くのです?」
「なんだか難しい言葉を使うね。…僕はカイル。他の何者でもないよ。とりあえず怪我はないんだね?そんな君こそ怖い顔をして何を調べてるの?」
カイルは微笑みかけると、丁寧な動作でひょいっとエルザを立たせれば、エルザの手元を覗き込む。
エルザの手元には解読不能だった“古代の暗号数式”があった。
彼からは敵意は感じない。
エルザは彼の興味を示したそれのことを答えた。
「…私はこれを解読しています。ですが、現在の私の演算能力ではこの数式の“解”を導き出すのにあと480時間かかります。非効率です…」
「え? これ、数式じゃないよ。こうやって逆さまから見れば…ほら、ちょっと歪で分かりづらいけど…子どもの好きなキャラを並べて描いてあるだけのただの落書きだよ」
彼の言葉にエルザの思考は停止した。
数式として解析していたものが実はただの“絵”だったなんて。
そんなエルザにカイルは堪えきれないように吹き出した。
「君、変わってるね」
[システムエラー:論理的敗北を検知]
[再定義:この個体は、私の“論理の穴”を無意識に突き抜けてくるーーー]
それから、カイルはエルザの顔を覗き込む。
息がかかりそうな近さで彼の澄んだ瞳に見つめられるとエルザはなんだかよくわからない気持ちになった。
[心拍数の上昇を確認]
すると、彼は言った。
「君の目はすごく綺麗だけど…ずっと“答え”だけを探しているみたいだ。たまには答えのないものを見たほうがいいよ」
カイルはそう言うと、持っていた古い詩集から一枚の栞を抜き取り、エルザの手に渡す。
それから、優しい声色で告げた。
「その栞の絵、何に見える? 検索しても出てこない君だけの答えが出たら俺に教えて?」
そう言うとカイルは本棚へと隠れるように立ち去った。
エルザは王都からは去るのでもう会うことはないと伝えたくて彼の後を追いかけようとしたが、すでに彼の姿は見つからない。
エルザは仕方なく手元に残されたその栞をスキャンした。
…何も出ない。
ただの、不規則なインクのシミ。
しかし、その“無意味なはずのシミ”を見つめていると、なぜか冷却ファンが激しく回り始めそうだった。
「…解析不能…ですが、この“不明なデータ”を保存せずにはいられません」
これが、エルザというAIの中に“意味のないものに価値を見出す”という恋愛に必要不可欠な最大のバグが植え付けられた瞬間だった。




