さそりの火
睦事のような舞踊は、およそ半刻ほども続いたろうか。
ひと際鋭く空を薙いだ宗介は、それを最後に動きを止めた。
急な減速ではない。刀に乗せた力を等速度で落とし、余勢を残したまま、次の動作へ移行していた。くるりと回ったせんが鞘へ納まる。手元も見ない、一瞬の仕業だった。
大きく満足の息を吐き、宗介は井戸端へと歩いた。石井戸の縁にせんを立てかけ、水を被って汗を流す。
ざっと体を拭ってから、再び刀を手に取った。ふたり揃って、長屋の自室へと戻る。
すっかり夜は深まって、後はもう眠るばかりの刻限だ。が、宗介にはまだ、しておくべきことがある。
行灯に火を入れ、支度を整えてから畳の上に正座した。改めてせんを抜く。
片手で、顔の高さに上げた。
弱い光にも煌めく刃文を、ため息が出そうに優美な反りを、静かに目だけで賞美する。
それから、用意の布を手に取った。
妖火を発したのちの刀身は、どこか火照って人肌に似る。しっとりと、濡れたように艶めかしい。
頭を振って邪念を散らすと、宗介はそこへ、丁寧な拭いをかけてゆく。
いつしか幽姿を現して、せんがその横合いに座った。足を崩し寄り添う距離で、宗介の手元をそっと見守る。
刀剣へする類の手入れは、本来せんに不要のものだ。
妖相を発した器物は生物が如き治癒力を有し、自ら最善の形を保ってのける。瑕も欠けも時を置けば自然と癒えるのだと、宗介は大角から聞き及んでいる。
実際、その通りだった。
たとえば勿来神社での斬り合いののち、宗介は刀を清める間もなく人事不省に陥っている。だが目覚めた時、せんにはひとつの血曇りもなかった。これには刀身に巻いた血脂を、舐め取るように妖火が焼いたためもあったろう。
けれど、と心中で宗介は唱える。
たとえるならば入浴だ。風呂に入らずとも人は生きられる。しかし湯に浸かり、心身を清めれば快かろう。それは決して無駄な時間ではなく、ゆとりと潤いをもたらす行為だ。
そしてこの種の余裕こそが暮らしに欠かせぬものであると、江戸での生活で宗介は痛感した。
昔、疲れて帰った父に按摩を施したことがある。文字通り稚拙な労いだったが、決して作り物ではない笑顔を父は浮かべてくれた。
ならば同じ志しを、せんに振る舞わぬ理由はない。
それで宗介は、椿油に鹿革、打ち粉といった品々を買い揃えた。
研ぎ師に頼むつもりは初めからない。せんを余人に触れさせたくはなかったからだ。
はじめは不器用だった宗介の手つきは、せん自身によいやり方を教わりながら、次第に上達していった。今では愛刀の手入れに習熟しきったと言っていい。
もちろん人と刀の感覚的差異から、配慮が行き届かないこともある。
例を挙げるなら茎だ。平素、柄に隠れるその箇所は、せんにとって秘部のような意識らしい。目釘を検める折に、「そこはあんまり見たら駄目」と羞恥の体で窘められたものである。
そうした齟齬こそあれせんも、宗介の手入れを嫌ってはない様子だった。
いや、むしろ有り体に、「好んでいる」と述べる方が正しかろう。
証拠にせんへ目をやれば、桜色に頬を上気させ、うっとり目を細めている。眠たげにとろんと脱力し、ちょうど湯船に揺蕩う心地かと思われた。
加えてこの頃は就寝の時分になると、「……そろそろ?」と言わんばかりの目配せが、せんの方からやってくる。毎夜の行為として習慣化するも致し方ない。
「そうだ、せん」
「え、あ、はいっ! ……な、何かな?」
満ち足りていた静寂を、ふと呟きが破った。
夢見心地で宗介の感触に耽っていたせんが、はっと我に返って居住まいを正す。
「せんの火について、少し意見を聞けた」
せんの刀身が纏う火炎は、しかしせんの妖相に属するものではない。ふたりの意志に従って発し、ふたりを救う妖威ながら、これは断じて異物だった。
巾木の蛇の存在を、宗介とせんは知らない。
妖刀が血を吸わぬまま長らく存在を維持できたのが、この妖魅と共生していたからであることも。妖火が、蛇神の貸与であることも。
だから宗介は、不審な火の正体を突き止めんと行動していた。
とはいえそこまで積極的な調査ではない。火は現状、害なく思える。どころか利点として機能している。ふたりに喫緊の感はない。由来が気になるから少し探ってみよう、程度の感覚である。
なので宗介は、長屋の書庫を漁っていない。調べものに適する場所とは承知だが、いささか苦手な相手が常在するからだ。
よって彼の調査は、金四ツ目たちの話を聞く程度のものに留まっていた。
「まあ、相変わらず何か究明できたわけじゃないんだが――」
前置きして宗介は、今日の道場でした、せんが不在の間の話を振り返る。
臥山に呼ばれた先で待っていたのは、ふたりの男だった。
よく焼けた四十絡みの一方は、富田八返。
名字持ちの豪農の次男で、大層な強面である。が、その異相よりも目を引くのはその左腕だ。右腕よりも明らかに長く、その腕で三人張りの弓を楽々と使う。
もう一方はつるりとした坊主頭に白髭を蓄え、墨染めを着た老僧だ。
可児天眼を名乗るこちらは、宗介の打拳術の師のひとりである。
『こうして雁首を揃えはしたがな。おせんの火について、何かわかったってわけじゃねェんだ』
すいと腰を下ろして、臥山が口火を切った。
兜巾こそなけれ、およそ山伏の形をしたこの青年は、大角の懐刀とでも言うべき存在である。涼しげな声音で話術を能くし、長屋に大角不在の折には文の捌きを請け負いもする。ために祐筆の真似事をする宗介との間には、自然と親交が生まれていた。
続けて彼は富田を目で示し、『特に富田の旦那は賑やかしだな』などと悪態をつく。言われた側は、がははと笑い気にも留めない。
『ですが愚禿と臥山殿で憶測を重ねましたゆえ。ひとまずの参考意見として、その報告をばいたしたく』
『お手を煩わせています』
一座に加わる形で正座をすると、宗介はまず礼を述べた。『なんのなんの』と富田が応じ、『旦那は何もしてねェだろう』と、その膝へ臥山の蹴りが飛ぶ。
実際、方々の消息に通じるのは臥山であり、妖相に詳しいのは可児である。富田は興味本位で居合わせるだけだ。
『まず手前からだが、火炎を纏う刀ってのがちょいと記録に見当たらねェ。抜けば露を発し寒気を呼ぶ……ってな例ならあるンだがな』
『そも陰陽五行に則りますれば、せん殿は刀剣。金行が生ずるは水にございます。それにより火を克することはありましょうが、元来火を生ずるは木行。ちと縁遠く思われますな。狐公どもが幻火を発する折に咥え骨をするが如く、外的要因に立脚するものとなりましょうが……ううむ』
そもそもせんの火は、熱を持たず雨中にも消えぬ陰火である。宗介の剣撃をなぞり、斬断の対象を冷たく燃え上がらせはするが、意図せぬ延焼を起こすことはない。明らかなのは、使いこなされた刃と等しく、決して使い手を――宗介を傷つけぬという一点のみだ。性質が固有かつ独特であるため、この火の起因はなかなかに探りがたい。
髭を捻りながら唸ったのち、可児は更に続けた。
『拝見する限り、せん殿の火には毒火の気配もありますれば。五虫木行となれば鱗虫。これには蛇の類も含まれまする。せん殿がかつて何か――たとえば叢雲の大蛇を斬ったような心当たりあらば、それ由来とも考えられましょう』
『大蛇……ですか。後でせんに訊いておきます』
社周りの椎の森にはそういえば随分蛇が多かった、などと思いつつ、断定はできずに宗介は頷く。
その後もいくつか意見と推論とを交わし、やがて臥山が結んだ。
『なんにせよ、あの火の気配が何か違うのは確実だ。ちょいとばかり支配的で高圧的過ぎる。お前さんらの性質じゃねェ』
『でも助けになってくれているのも確かなんです。だから正体がわからなりに手綱をかけて、いつか飼い慣らしてやろうかと』
『見事見事。勇士の心掛けよ』
しみじみと富田が頷く。聞きようによっては皮肉とも取れるが、これは素直な賞賛である。
だが続いてこの大男、とんだことを言い出した。
『時に宗介。刀の火ってのは、おまえ以外が振るっても出るものなのか? ひとつ、おれに握らせてみんか』
『せんは、俺以外に抜けませんよ』
『そこは工夫つけられようて。まずおまえが素っ破抜き、それからおれに回してのければ』
『騙し討ちです。されるせんの気持ちを考えてください』
宗介の目が、わずかに剣呑な光を帯びる。
ほんのひと刹那、内心の瞋恚が漏れ出ただけのことであったが、臥山と可児は見誤たずこれを察した。
ふたりが格段に鋭敏というわけではない。長屋の者ならもうほとんどが、温厚篤実な妖刀使いの逆鱗が奈辺にあるかを知悉している。悟らぬは富田八返ばかりだ。
『なァ、富田さんよう』
富田が舌禍を重ねるその前に、すいと臥山が割って入った。
『旦那の嫁御、大層な器量良しだよなあ』
『おうおう、わかるか臥山の。だろう、だろう』
脈絡のない誉め言葉にも、上機嫌に富田は頷く。
そこへ臥山はしれっと続けてのけた。
『ちょいと具合を試してェんで、手前に一晩、貸しちゃくれねェか?』
『ああ!?』
『なァに、旦那に手間はかけさせねェ。引き合わせてくれさえすれば、あとは上手くだまくらかすさ』
怒気を発しかけたところを更に刺されて、富田はようやく、己の発言がどう受け取られる種類のものかを把握する。
『すまんかった。これはとんだ阿呆を抜かした』
やらかしを理解した富田の次の行動は、間髪入れぬ平身低頭であった。
大きな体を精一杯縮こめて額ずく姿には、当人の真摯さとは別の可笑しみに満ちている。失言の多いこの男が、それでも憎まれ切らぬのは、こうした愛嬌に因ろう。
瞬間的に憤慨した宗介だが、こちらは短い付き合いなりに富田という人物を承知している。
苦笑しつつ、けれど隔意なしに謝罪を受けた……
「――とまあそんな話だったんだが、せんは、蛇に何か覚えはあるか?」
富田との顛末を除くおおよそを語り、宗介は妖火の由来について、せんの見当を問う。
少しばかり考えたのち、やがて彼女は首を横に振った。
「ごめんなさい。心当たり、全然なくて。そもそもわたし、どうして自分があそこで祀られてたかもよく知らないから……」
「いや、そんなに気にしなくていい。非を鳴らすつもりはないんだ。言い出すならそもそも俺が、社の縁起を把握していればよかった。その血筋だったんだから」
「……宗介はもう、わたしに甘いなあ」
たちまちの気遣いを受け、せんは切り替えるように両の拳を握り締める。じっと、宗介の瞳を見据えた。
「うん、でも大丈夫だよ。だって積み重ねてきたもの。巾木ででも、ここでも。だから大丈夫。あの火の正体がなんだって、きっとへいちゃら平気だよ」
「……そうだな」
いささか気弱な宗介の同意に、せんはむっと口を結んだ。解いた双の手のひらで、宗介の頬を両側から叩く真似をする。それから慈しみを帯びて指を広げ、触れえぬ手で、彼の顔を包み込むようにした。
「大丈夫なの。どんな逆風だって、宗介ならへっちゃらなんだから」
「ああ、そうだな」
されるがままに目を細め、同じ言葉を宗介は返す。そして付け加えた。
「せんの言う通りだ。俺たちなら、大丈夫か」
折れて容れたようでいて、その実すり替えられた回答に、せんは数度まばたきをした。それからふにゃりと微笑んで、よろしいとばかりに頷いてみせる。
笑み返して宗介は、最後のひと拭いを刀身に施した。ゆっくりと鞘に納め、枕頭の刀掛けに据える。
明かりを落とすのと同時にせんが幽姿を消し、宗介も床へ身を横たえる。
「おやすみ、せん」
「うん。おやすみなさい、宗介」
言い交わしてから目を閉じた。
眠りに落ちる前の宗介は、いつも少し心苦しい。刀は眠らない。だから自分が夢に漂う間、彼女は夜にひとりきりだ。
彼女の長い孤独を知るから、宗介はそこへ、置き去りにする罪悪感を覚えずにいられい。
彼が眠りに落ちて、一刻ほどが過ぎたろうか。
宗介の寝顔を照らす淡い光が室内に湧く。せんの幽姿が纏う燐光だった。
ふわりと近いて枕元に端座すると、せんは畳に手を突き、真上から宗介を覗き見込む。そのまましばらく寝息を窺い、せんはほっと安堵の息を吐いた。
――今日も、よく眠れているみたい。
宗介は、しばしば夢に魘される。
最初は傷が痛むのだと思った。彼の脇腹には大きな刀痕が残るからだ。
けれど、違った。痛むのは体ではない。
悪夢に居る宗介は、時折、「ごめんなさい、ごめんなさい」と、小さな子供のような詫び言を漏らす。
謝罪の相手が、兵庫をはじめとする壬生一門なのは明らかだった。
毀れた心を、平素、宗介は押し隠している。けれど精神の箍が眠りによって緩むたび、手ひどい決別の記憶が宗介を責め苛むのだ。
せんにとっても、これは辛いことだった。
声をかけて起こしたところで無駄なのだ。目覚めで悪い夢から逃れたとしても、それは一時だけのこと。微睡めばまた、待ち受けていた昏い夢が立ちどころに宗介を絡め取る。
だからせんは、宗介の苦悶を見るしかできない。
他には何もできないのだ。
苦しげな宗介の手を握ることも、額の汗を拭いうことも、そっと抱き締めることさえも。
だからせめて、囁くように子守唄を吟じた。
それはわずかながらも功を奏してくれる様子で、宗介の寝息は時に安らかに変じてくれた。
方相長屋で暮らし始めた当初、悪夢それこそ毎晩やって来た。
だが日を追うにつれ、その頻度は減ずると見えた。
きっと宗介は自分の傷と真っ向から向き合って、少しずつ折り合いをつけていっている。悲しいほど、しなやかな強さだった。そうした行為に、彼は慣れ切っている。
けれどどんなに慣れていたって、痛くないはずはないのだ。
心の傷は目に映らない。
加えて宗介自身が、いつも何でもないふうに、至極穏やかに笑って見せる。
それで皆、気づかないのだ。
だから皆、気づけないのだ。
彼の満身の傷口が、まだ血を滴らせていることに。
いっそ泣き喚いてくれたらいいのにと、せんは思う。
なのに宗介は、いつも静かに笑っている。
だからせんは希う。強く強く希う。宗介の胸を吹き荒れる嵐が、少しでも早く凪ぐことを。
そう祈りながら、だけど、どうにも困ったことに。
宗介の眠りが今宵のように静かだと、それはそれでせんは不安に陥ってしまう。
静かに横たわる寝姿が、死にほど近く見えるからだ。
せんはあの雪の夜に、一度彼を喪いかけた。永訣の影は、以来せんの胸に棲みついて、ひどい懼れを掻き立てる。
そっと顔を寄せ、宗介の呼吸を検めた。その体を血が、命が巡っているのを確かめる。
――ああ、生きている。
己の手を胸元に当て、安堵の微笑を零した。
居住まいを正すと、せんはこうも自分を変えた悪い男を恨めしく、そして愛おしく睨める。
――宗介の、嘘つき。
心の中だけで非を鳴らした。
そう、彼は嘘つきだ。
――俺からこの手は離さない。
――じゃあ、ずうっと一緒だね。
交わした言葉は、遂げられぬ約定だ。
だって宗介は人で、わたしは刀で、ふたりの身の上を流れる時間はどうしたって違う。
あんな約束をしておいて。こんな気持ちにさせておいて。
いつか宗介は、わたしを残して行ってしまう。
わたしは必ず、置き去りにされてしまうのだ。
だけど、そんなことは最初からわかっていた。
だから、別離のための心支度だってしてきた。
なのに。
なのに宗介が、あんまりにも優しくするから。してくれるから。
必ずやって来るさよならを思うと、張り裂けそうに胸が苦しい。
そんな宗介の人生に、自分は大きな影を落としてしまった。
わたしなんかを選んだ所為で、彼は独りになってしまった。
きっと歩めたはずの、日の当たる道を捻じ曲げてしまった。
孤独地獄の苦しさを、せんは誰よりもよく知っている。だからこそ、同じ境遇へ宗介を突き落としてしまった悔恨は強い。
それなのに、幸福なのだ。
にも関わらず、幸福なのだ。
生まれ故郷も紡いだ縁も何もかも失い、今も心の傷に呻く宗介の隣に居られることが。そんな彼の特別として、大切として、ごく近くに在れることが。
自分は、幸せでならないのだ。
共にあるだけで楽しい。言葉を交わせば嬉しい。目があえば愛おしい。
――きっと幾度繰り返しても、わたしは宗介に縋ってしまう。
――必ず、この道行きを選んでしまう。望んでしまう。
なんて浅ましいことだろう。
思いながら、宗介の頬に手を伸ばす。
触れえない手を。役立たずの手を。
何かしてあげたいと思う。何かできたならと願う。
けれど何ひとつ叶わないから、せめてもで強く祈った。
――そうすけ。
声には出さず、唇だけでやわらかに呼ぶ。
彼のこれからに、たくさんの幸がありますように。
この人のためならば、本当の幸いのためになら、わたしなんか、百万遍灼かれたって構いません。
斯くして長屋での月日は過ぎゆき、ふたりの上に更なる時が降り積もる。
大角が宗介とせんを呼び出したのは、穏やかな春の温度が、夏の暑さへ移ろわんとする頃であった。




