剣のあわい
「あそこは断然突きだろう。こう、田楽刺しに仕留めるべきだった」
「だが斎藤は軽捷だ。突きは体捌きで避けられやすい」
道場の片隅に向かい合って座り、喧々諤々のやり取りをするのは宗介と百鬼だ。
議題は先の立ち合い、体を崩した百鬼に対する追撃についててである。稽古の後で彼らは、必ずこのような議論を交わした。将棋や囲碁における感想戦に近しいものと言えようか。
この騒々しさを咎める者は周囲にない。
気の向いた同士が三々五々に集まって、好き勝手技を磨くのが方相長屋の道場である。多少の声など注視もされない。
「うんうん。だから胴を払った宗介に間違はないって思うな」
宗介の左に端座するせんが、すぐさま使い手の意見へ同意を示した。
真っ向からの反論に百鬼が唸る。
歴戦の刀たるせんは、剣に造詣の深い見巧者でもある。その意見は決して無下にできない。
「だけど二度続けて同じ攻め手はよくないだろ。実際、オレは避けたぜ。二度目は避けたぜ」
「繰り返しになるが、それは斎藤の身軽さがあってこそだ」
「わたしも同意。宗介が正しい」
「いやちょっと待て。さっきからおせんは、巾木を贔屓しすぎだろ」
「贔屓なんてしてないもん! 宗介は、元々すごい子なんだから!」
吠え合うふたりを、まあまあと他人事のように宥めてから、宗介はせんへ目配せをする。
「ところで、せん。お迎えが来ているぞ」
「あ!」
言われて目をやれば、小さな影がふたつみっつ、縁側から道場をちょこりと覗いているのが見て取れた。
長屋に住まう子供たちである。
およその傾向として、大人よりも年端の行かない童の方が、見鬼の力は強い。心がまだ柔軟で、人外を容れる余地が広いからであるという。
そのような、見る目を有する子らにとって、ある日長屋に現れた、不思議で綺麗なお姉さんは強い好奇の的だった。彼らは屈託なくせんの後をついて回り、たちまち彼女を友人認定してのけた。
触れ合えないから、交ざれない遊戯は多い。
本体からそう離れられないから、遠出にも付き合えない。
それでもいつも朗らかで、分け隔てなく優しいせんお姉ちゃんは、申し分のない遊び相手であったのだ。何より、どんな児戯へも大真面目に取り組んでくれるのがよい。
なので長屋の少年少女は頃合いを見てはやって来て、せんの取り合いを繰り広げていた。
我が子を妖魅に、時に透き通る不可触な白装束の娘に任せすることに不安を覚える向きが出そうなものだが、なにせ所は方相長屋だ。剛毅というか呑気というか、そうした気配は今のところはまるでない。
ちなみに近頃せんが宗介の筆仕事に同席しないのは、この新しい友人たちのためだ。職務に真剣な宗介の横顔を眺めていると、目ざとい大角がしたり顔でほくそ笑んでくるからでは決してない。
「えと、行ってきても、いい?」
「ああ、もちろん」
問われて、すぐさま頷きを返した。せんと子供たちとの良好な関係を、宗介はよく心得ている。
ぱっと笑顔を咲かせると、百鬼へぴょこんと一礼し、せんはふわりと子供たちのところへ飛んだ。「お待たせ」と告げられて、幼い歓声ががわっと上がる。
見守るようにそのさまを眺め、宗介は目元だけでわずかに笑んだ。
せんを慕う子供らへ、宗介は恩義のような感情を抱いている。
百鬼との立ち合いのような例外を除き、宗介が道場でせんを握ることはない。
真剣よりも竹刀が稽古に向くのは当然であるが、何よりこの頃の宗介は、大角をはじめとした心得ある者たちから体術を習い覚える最中だった。
宗介はせんを、当人の許しなく抜刀しないと誓っている。だが金四ツ目を志す以上、荒事は避け得ない。刃傷の沙汰に巻き込まれることとてあろう。そうしたもしもの折にも、せんを振るわず済ますための学びだった。
もちろん宗介が危機に陥ったなら、せんは自ら鞘を飛び出してのけるだろう。抜かれるより早く、ちょうど、相州七剣を斬り払った夜のように。
だが刃に望まぬ血を絡めるは、即ちせんの心を傷つけることだ。宗介はそう考える。
二度とあのような事態を起こしてはならない。俺なんかのために、せんが苦しむなどあってはならない。
よってもうひと振り、非常用の刀を用意する、という解決策は棄却である。
ただでさえ竹刀に対抗意識を燃やす彼女なのだ。もし他の刀を帯びなどすれば、悋気の甚しさは想像に難くない。
そうした配慮の結果の拳術修練であるが、しかし器怪のせんにとって、これは看過できない選択だった
宗介が一番得意なのも好きなのも、剣であって欲しい。そしてその技を一身に享受するのは自分でありたい。
せんの根にはそのような心持ちがある。何より役立つ役立たぬは付喪の存在意義に関わることだ。
もちろん宗介は、自身の判断とその理由を包み隠さず――流石に自意識過剰と思い、悋気云々については省いた――せんへ告げている。だが感情とは理屈通りに動くものではない。頭では納得していても、自身が不用と見做された感触を、せんはどうしても拭い切れない。
その上、ますますお気に召さないことに、宗介の体術が目の前で長足の進歩を遂げていくのだ。
ひとつのことに専心し、一流の域へ至った者は、他の事柄への理解も早い。おそらくどこかに似通う要諦があるためだろう。そして元々宗介は、物事の骨子を掴むのが巧みな性質をしている。
剣で練り上げられた五体は、宗介にとって馴染みがなかった技法を、まるで瓶の水を移すように飲み込んでいった。
だがその上達はせんにとって、喜ばしいものではなかった。自身の無用をより強く突きつけるように感じられるからだ。
今ではもう解決した傷心であるが、この時期の滅入ったせんを救ったのが長屋の子らだった。
彼らはせんを、ひとりの人間として扱った。長く誰にも認識されなかった彼女を、刀ではなく人として扱い、慕ってくれた。まるで宗介とすっかり同じく、それはせんにとって、途方もない慰めになった。
だから道場稽古を終えた夕暮れ、せんを迎えに行く前に宗介は、ひたじ屋という茶屋に寄る。
媼ひとりで営むこの茶屋は、近頃の宗介の贔屓だった。理由は明快で、長年に渡る客商売の眼力ゆえか、店主のおかね婆さんがせんを見聞きしてのけるからだ。
気難しく見えもするが、根は善い人物なのだろうと宗介は判断していた。これまた理由は単純で、せんが懐く様子だからである。
ここで買い込んだ一文菓子――麦、ひえ、あわ、屑米などを炊き、糖化させた麦芽て煮詰めた甘味を、宗介は付け届けていた。前述の恩義に報いるための馳走である。
が、これを受け取らない子供もいた。
実を言うと宗介は、少年少女の一部に疎まれているのだ。「せん姉ちゃんを独り占めする悪い奴」と見做されている。
が、当の宗介はどこ吹く風だった。せんが強く愛される証左と思えば、逆に鼻が高い。
ただ、少年少女と無心にはしゃぐせんを見る折、ふと寂しさを覚えることはあった。せんが、自分だけのせんでないと思い知るからだ。それこそ子供のような独占欲で、ならばおあいこと言えなくもない。
「百鬼坊、ちょいと、宗の字を借りてもいいか」
わずかに苦笑したそこへ、横合いから声がした。
声の主は臥山勧進。最前、宗介と百鬼の立ち合いにおいて審判役を務めた、山伏形の青年である。
論議もひと段落した格好であったから、百鬼へ目線で挨拶をして、宗介は立ち上がる。
「巾木にはもう一枚、上があるんだよな……」
ごろりと仰向けに寝転び、宗介の背を見送りながら百鬼は独り言ちた。
頭の中で、先の勝負を繰り返す。
自身がせんに、妖刀に特化した剣士だとは、常々宗介の口にするところである。つまり竹刀稽古において、あの好敵手は本領を発揮していない。であるのに、勝てない。実に手強い。
だが、それでこそ越え甲斐があるというものだ。あいつを踏み越えたその時、自分は今よりひと回り、いやふた回り以上強くなれる……などと思いはするが、現状、勝ちへの糸口が見えない。
焦って足掻いても仕方がないとは知っている。重ねた努力とは螺旋のようなものだ。同じ場所をぐるぐると回るようでも、必ず前へ進んでいる。だから今は、ただ地道な鍛錬を継続するべきなのだろう。
しかしそれでもわかりやすい突破口を望むのが、人の心というものだ。
「おせんよりもいい女、探してみるか?」
「愚昧ですか、斎藤百鬼」
弱気めいて呟いたところを、上から女に覗き込まれた。
品よく着物を着こなし、しかし武人めいて張りつめた空気を備える彼女は、うずめと呼ばれる金四ツ目のひとりである。
「貴方が付喪を手にしたところで、巾木宗介のようにはなりません。他の女怪とでも同じこと。あれは特別に誂えた鞘と刀の如くぴたりと添った、忌々しくも特別な例です」
わざわざ「忌々しくも」などと付け加えるのは、彼女が長屋における妖魅嫌厭派の急先鋒であるからだ。
せんが居合わせるうちは近く寄らなかったのも、一種の意思表示だったろう。
「へえ」
だがその口ぶりを耳に、百鬼は寝転んだまま驚きを示した。
「凄ぇな。姐さんにまで認められてんのか、巾木とおせんは」
「……認めていません」
「へいへい」
にやつく百鬼を、うずめは細い眉を顰めて睨み据える。
「真面目に聞きなさい、斎藤百鬼。貴方は、貴方に見合う相手を探すべきという話をしているのです」
「へいへーい」
気のない返事した百鬼が直後、ぐえ、と呻いた。容赦のないうずめの踵が、鳩尾に突き立ったためである。
*
暮れて、夜。
月は雲居に隠れたが、宵闇を照らす光源が方相屋の道場脇に舞っている。
射干玉の黒を切り裂く赤は、せんの刀身が纏う妖火のものだ。
鋭く、速く、空を裂く音すらなしに、宗介の剣が奔る。絶えず斬撃を振るい、留まらず足運びを続けながら、彼の姿勢には少しの乱れもなかった。
刃の軌跡も、同じく乱れぬものである。
ぶれず、恐ろしく直いそれは、背筋が粟立つほどに美しかった。
唐竹から逆風。突きへ転じて右に薙ぎ、体を回して袈裟切りへ。
一瞬の遅滞もなく動きを維持しながら、宗介の呼吸は深く、長い。激しい運動の最中とはとても思えぬ代物だった。それでも額には玉の汗が浮き、全身が水を浴びたように濡れている。
この剣舞は、せんとのふたり舞は、夕餉ののちの日課だった。
百鬼との立ち合い以外の鍛錬も、宗介は道場で積んでいる。合わせれば随分と長い稽古時間になるのだが、頭抜けた体力を持つ宗介は苦にもしない。
そもそも一心に剣を振るう折の感覚は――せんとひとつに溶け合ってゆく感覚は、宗介にとってひどく快いものだった。
指の先、爪の先、髪の毛の一本一本にまで意識が行き渡り、この上ない精度で五体が動く。
刀身へも鼓動が伝わり、血が通う。まるで己の一部であるかのように。
それらは精妙極まる太刀行きを宗介に可能とさせた。
宗介の剣技をせんが補正し、せんの導きを宗介が洗練し、互いが互いを正しい形へと磨き上げていく。互いが互いの理想へと、ぴたり当てはまってゆく。
より高くその先へ、もっと先へ、更に先へ。共に手を引き合い、登り詰めてゆく。
羽化登仙の如き心地は、ここ以外では味わえぬものだ。
巾木の時分から重ねてきた剣舞は、近頃、より一層に親密の気配を帯びていた。
ふたりの距離が近づいたこともある。だが何よりの理由は、この剣舞の時間が、せんの傷心を解決したことにあるだろう。
道場稽古がせんにもたらした曇りを、宗介はすぐさま察した。
わずかに沈んだ声。少しだけ伏せた瞳。努めて内心を出さぬよう堪える、俯きがちの仕草。何よりも、陽だまりのようだった笑顔の陰り。
それらは宗介へ異常を報せるに十分なものだった。
が、気づいたところで何が出来ようか。そもそも鍛錬内容の理由なら、既に告げ知らせているのだ。ならばこれ以上言葉を重ねることに意味はない。
数日かけて知恵を絞り、ある夜、宗介は常とは異なる剣を使った。
それは棒を振るような、ひどく拙い動きから始まった。思わず戸惑いを漏らすせんを他所に、淡々と宗介は続ける。
徐々に、その動きが洗練されていった。
身体能力に頼り切った動きが変わる。背筋が伸び、手足の強張りが抜け、視線が前を向く。
やがて、せんが気づいた。
出会ったばかりの宗介だった。そして、自分の手ほどきを受け始めてからの宗介だった。
みるみるうちに、剣が円熟していく。宗介とせん、ふたりだけの時間が降り積もっていく。
ふと、太刀行きにこれまでと異なる色合いが交ざった。壬生兵庫の色だった。異色はすぐにせんの色彩と溶け合って、宗介の血肉となっていく。
それは出会いから今に至る軌跡だった。共に歩んできた道程だった。
刻一刻と変化しながら、宗介は少しも変わらず宗介だった。
何も心配いらないのだと、そう微笑まれた気がした。
巾木宗介は、せんなくして成り立たないものである。ちょうどふたりの、剣のかたちそっくりに。
今宵の剣は修行にあらず。せんへと捧ぐ、奉納の剣舞だった。
ひと滴だけ、涙が頬を流れた。細い顎先を伝って落ちる。
幽姿として眺めながら、刀として振るわれながら、せんは自分の全部が、宗介の心に包まれるのを感じていた。
ふたりが深く繋がり結びつく、剣の間なればこその感触であったろうか。
宗介の厚意はせんの刀としての矜持を癒し、のみならず心のどこか別の部分までもを静かに満たした。
最後のひと振りを終え、刀身を鞘に納める。
瞑目ののち、深く息を吐いてからまぶたを拓けば、間近にせんの瞳があった。それは、今にも泣き出しそうに潤んでいる。きっと、赤心が届いたのだと思った。
『俺からこの手は離さない。せんに、そう望まれない限り』
触れえない幽姿へ、そっと強く、宗介が誓う。
一瞬大きく目を見開いた後、せんはぱっと満開の笑顔を咲かせた。
『……ふふ。じゃあ、ずうっと一緒だね』
雨降って地固まると言うが、それはまさしくその通りの光景だった。
以来である。ふたりの舞が、どこか艶めきだしたのは。
銀の剣閃が闇を裂き、刹那遅れて刀火がその軌跡をなぞる。
濡れたような妖しの赤へ、戯れかかるかに刃の光がまた瞬く。
或いは重なり、或いは交差し。
ふた色の心は、いつ果てるともなく夜を彩る。




