冬、過ぎにけらし
太刀風が宗介の鼻先を掠める。
余裕を持っての見切りではない。辛うじての回避である。慌てた動きに、宗介の体が乱れる。
対峙する青年剣士は、一撃を振り抜いた余勢を利して半回転。咄嗟の反撃はないと見抜いた上での行動だが、とはいえ一瞬ながらも完全に宗介から目を切る仕業だ。余程の胆力がなければ取れる選択ではない。
これに対して、宗介は低く一歩飛び下がる。
苦い記憶からの行動だった。
宗介は以前、同じ状況を経験している。その折、宗介は見えた敵手の背中を隙と見た。ゆえに反攻の踏み込みをし、出したその足を低い後ろ回し蹴りに刈り取られた。
宗介の後退に、一瞬ながら青年の動きに淀みが生じる。やはり、誘いの隙であったらしい。
だが彼からしても、既にして見せた手札である。通じぬ場合も、当然織り込んでいたのだろう。蹴りに用いるはずの足で前に出るなり、宗介を追って大きく跳躍。真っ向正面から叩き伏せる太刀行きを見せた。
が、これは勝ちを逸った悪手である。
青年と宗介の体格はほぼ互角。齢の近さもあり、発揮する筋力もほぼ同一かと思われる。
しかし、違う。
純粋な剣技においては一枚二枚、青年が宗介の上を行くように。宗介の膂力は青年をわずかに、だが確かに上回る。
「いけー、宗介っ! そっこだー!」
見守るせんが声を上げ、拳を突き出した。
極度の集中のうちにもそれを聞き取り、宗介の口元がかすかに笑う。油断ではない。柔軟性を回復した精神はむしろ呼吸を落ち着かせ、肉体に十全の力を発揮させる。
全体重を乗せた一撃を、宗介が盤石の形で受け止めた。刹那、青年の体が中空に静止する。一瞬の拮抗。そして直後、宗介の両腕が大きく青年を跳ね飛ばした。たたらを踏んで着地するその胴へ、逃れようのない竹刀の一打が炸裂する。
「それまで!」
審判役を務めていた山伏形の男が声を上げた。すいと身を退き、宗介は納刀の仕草をしてから一礼する。
「やったね宗介! 我慢して追わないで、追わせて受け切ったの、えらいっ!」
ひと勝負を終え、道場の隅へ戻った宗介へはしゃぎ声がかかる。声の主は言うまでもない。せんである。
ここを利用するのは金四ツ目と、それを志す者たちばかりだ。当然ながら妖魅を見聞きする力に長ける者が多い。せんにしてみれば、却って気兼ねなく声を発せる場所であった。
「せんの指南のお陰だな」
「……えっへっへー。それほどでもー!」
面を外し、息を入れつつ宗介が応じる。
するとせんは通り一遍の謙遜ののち、心から幸福げな笑みをこぼした。宗介の賞賛は相も変わらず、彼女の無上の喜びである。
「くっそ、負けた!」
対して乱暴に面を脱ぎ捨て、子供のように歯噛みするのは胴を打たれた青年剣士だ。
名を、斎藤百鬼という。
百の鬼を切って古今無双に至り、いずれ一流を興して故郷に錦を飾ってみせると豪語する青年である。人妖問わず相手取って磨いた剣は、自負に違わず抜きん出たものだった。
食いつめて江戸に出た農家の五男だというから、仰々しい姓名は自らつけた代物であろう。大角の「内供」を筆頭に、方相長屋にはこうした名乗りをする者が多い。
「なんだよ斎藤、ちゃんと勝て。馬鹿か」
「うるせぇ、じゃあお前が巾木とやってみろ!」
「嫌に決まってるだろ。負けりゃおまえに煽られて、勝ててもおせんちゃんに睨まれるんだぞ。いいことないだろう」
そんな斎藤に飛ぶ野次は、決して悪意からのものではない。むしろ気安さの証左である。
「にしても、巾木はいいご身分だよなあ。勝てば褒められ、負けりゃ親身に慰められて、だ」
「違いねぇ。おれの腰の物と換えてくれんかな」
同類の軽口が、宗介へも注ぐ。
刀としても女としても見目麗しきがせんである。その声援を一身に受ける宗介が、男どもからどういう視線で見られるか。それは推して知るべしだろう。
「大体、負けたのは俺だろう。三本立ち合って、ようやく取れた一本だ」
「全力じゃないお前に一本取られたのが業腹なんだよ!」
やっかみを流しつつ、宗介は百鬼に声をかける。
が、負けず嫌いのこの剣士は、更にむくれるばかりだった。
筆仕事ののちの竹刀稽古も、およそ宗介の日課である。と言っても江戸市中の道場まで、稽古に出向いてるわけではない。
大名屋敷ほどではないが、それでも広大な敷地を方相長屋は所有している。この武錬場は、そのうちに抱えられた施設のひとつであった。巾木村の壬生道場より遥かに見事な構えの上、隣接して矢場までもが設けられている。
土地のみならず、方相長屋は資金の方も潤沢なのだ。なんと郊外に馬場までもを有している。
金満のさまは大角の方針によるものだった。
悲しいかな、無償の慈善行為では口を糊しえぬのは世の常だ。身を削り続ける善意の先に待つのは、疲弊し、痩せ細って倒れる未来ばかりである。
自明至極のこの理屈を弁えるから、大角は多くと縁を結び、たんまり支援の金を賜っていた。怪事解決の礼金も、いただける先からはがっぽりと頂戴している。
使い道は言うまでもない。訓練、学習の場の充実である。偏に長屋の者の、金四ツ目たちの生存率を上げるべくの施策だった。
知識ひとつ、技術ひとつが命を救う場合があるとは、怪事に携わる誰もが承知すること。そして人間とは替えのきかない、希少かつ貴重な資源である。ならばその資源を守るべく、長屋が経験の伝授と共有に腐心するのは当然と言えよう。
方相長屋が擁するのは直接戦闘に関わる施設ばかりではない。妖魅の知識を蓄積する機関も無論ある。
道場に隣接する書庫がその一例だ。ここには専任の管理者が配され、様々な妖異譚を蒐集している。内容を精査し、類例をまとめ、怪事に対する有用な資料とすべく、日々編纂に勤しむのだ。
方相長屋の施設たちは、広く門戸を開いた、一切秘匿のないものである。
しかしながら宗介は当初、これらへ全く寄りつかなかった。竹刀が響く道場は、特に意識して避けた。
宗介はその理由を、自身の剣の特殊性に求める。
兵庫から教授された、真っ当な術理もないことはない。が、それでも己の剣はせんを振るうことに特化した、独自極まる代物なのだ。その汎用性は甚く低い。相互に高め合う鍛錬の場へしたり顔でこれを持ち込むのは、何とない無礼に当たろう。
そのように考えていた。
そのように、考えようとしていた。
言うまでもなく、自己欺瞞である。
長屋の道場は決まった流派を伝えるためものではない。一種一体、多種多様なる妖魅との抗争手段として、ただ生き延びることを前提とした技術を伝え、磨く場である。刀も槍も弓も火縄も大筒も、それ以上もそれ以外も、遠慮会釈なく用いてのけるが在りようだ。
付喪の剣を披露したなら、再現性のある可食部分を咀嚼するだけ咀嚼して、血肉に変えることだろう。
つまるところ宗介の根底にあったのは怯えだ。
また親しい相手を作ることを、そしてそれを失うことを恐れたに過ぎない。
もちろん傍らにあるせんは、このことを理解している。が、心の傷を詳らかに知ればこそ、指摘できないこともある。
それで宗介は毎夜ひとり、人の絶えた道場の脇でせんを振るった。
剣の型は将棋とも似通うと、そう宗介は考える。
ひとつの無駄もない攻めにより対応を限定し、やがて守りを噛み破る駒の動きと、一心の太刀行きにより優位を奪い、更にその先を取って死命を制する剣の働き。
それしかない一手を積み重ねるという点で、型の術理と詰将棋の解はほど近いように思われるのだ。
最適解を瞬時に閃き続けるそのために、無限のような思考と研究を繰り返すしかないという点も、また。
極限の緊張と極度の集中、呼吸と思考の暇すらない実戦において、考えながら動いていたでは遅い。石火の機を逃さぬためには、日頃から正しい形を五体に染み込ませておかねばならない。
そのことを、あの夜に宗介は痛感していた。
勿来神社での斬り合いは、今もまだ、じくじくと痛む記憶である。けれど剣士としての宗介にとって、それは糧でもあった。あれだけの力量を持つ剣士たちと斬り結ぶ機会など、泰平の世に得難いものだ。
命を奪い合う体験が術理への理解を強め、それはせんと磨き上げてきた剣の練度をより深くした。
傷にも疲労にも惑いにも左右されない、淀みなく働くものを得ること。それを修練と呼ぶのだと、今の宗介は心得る。
だから宗介の修練は、自然そうしたものになる。
時に尋常ならざる速度で、時に異常なほどの緩慢さで、宗介は同じ型を繰り返す。ひと振りごとに動きを正し、ただ、入神の域へ至らんを欲する。
そんな宗介に振るわれる時間は、刀にとっての至福だった。
己の重量と切れ味をもっとも生かす角度で、速度で、唸り続ける無心の剣風。こうも十全に自身を使いこなす剣士を、愛おしまぬ刃があろうか。
恍惚と陶酔の表象が如く火炎が生まれ、刀身に踊る。それは血のように赤黒く、けれど玻璃の如く透き通った妖火である。
夜闇に次々と尾を曳く緋色の軌跡は、まるで艶めく舞だった。見る者の血肉を滾らせ、ひたすらに魅了する美がそこにはあった。
内供が連れて帰った妖刀使い。
それを見定めんとする周囲の目を、宗介はこの剣舞にて、我知らぬまま瞠目させた。しかしながらこの驚嘆が原因で、宗介は遠巻きに眺められることとなった。高度な技術者特有の狷介な気配を、周囲が勝手に感知したのである。
宗介当人にも周囲との関係を意識しない悪癖があり、せんと大角以外とは会話のない日々が続いた。
この空気を破砕したのが斎藤百鬼である。
金四ツ目の仕事から戻った青年剣士は、宗介の鍛錬を見るなり目を輝かせた。そしてそのまま、『なあ、オレとひと勝負しようぜ!』と詰め寄ったのだ。
以来、百鬼は宗介を好敵手と目し、顔を合わせれば竹刀稽古に興じている。
宗介が誘いを拒まないのは、彼の側もまた百鬼を好敵手と目するからだ。技巧を尽くす全力の立ち合いは、実に愉快なものだった。
呼吸が噛み合うとでもいうのだろうか。兵庫を筆頭に、宗介は強い剣士たちとも稽古をしてきた。だが百鬼ほどに対峙が楽しい相手は初めてだった。
そうするうちに、気づけば宗介は道場の人の輪に加わっていた。それは他の長屋住人との良好な関係へも繋がり、今や宗介は幾人かと連れ立って、長屋の馬場へ馬を習いに行くことすらある。
全ては百鬼の快活な強引がもたらしてくれたものに違いなく、宗介としてはこの剣友に、限りない感謝を抱いている……
「聞いてんのか、巾木! もうひと勝負、今度こそ本気の本気でもうひと勝負だ!」
「いや、本気だったぞ、俺は」
とはいえこの恩人の頑是なさは、時に困りものである。
少々諫めたところで聞き入れもしないのだ。
「いや、全力じゃあなかった。かかって来い。次は、おせんと一緒にかかって来い!」
「それだと二対一だろう」
「いいや、それでもオレが勝つ!」
せんと一緒、と言いはするが、百鬼が望むのは真剣による斬り合いではない。
彼が要求するのは、せんの感覚強化を受けた宗介との立ち合いである。初めての手合わせの折、百鬼はこの状態の宗介に完敗を敗北を喫した。以来彼は雪辱を志し、宗介とせんのふたりへ頻繁な挑戦を繰り返している。
さてどうしたものかと目をやれば、「ふふん、よしきたぁ!」と勇ましく腕を回して、せんの側も意気軒昂だ。
随分と好戦的なようだが、何のことはない。せんは周囲に見せつけたいし、特等席で見たいのだ。「わたしの宗介」のお手並みを。器怪の性から乖離して、せんは自身よりも宗介が称えられるをこの頃好む。
こうなっては抑えられるものではない。
苦笑して宗介は、「三番勝負を、もう一度だけお願いします」と先の審判役へ声をかけた。道場の刀掛けから愛刀を取り、腰に帯びる。同時にせんが幽姿を消し、意識を本体へと戻した。
改めて面をつけ、宗介と百鬼は向かい合う。
はじめ、の声がかかると同時に、全てが鈍化した。
せんと繋がることにより、宗介の感覚は恐ろしく鋭敏化する。今、砂地に立ったなら、足の裏だけでその粒を数えられよう。
そこへ、せんの認識が加算される。見るで聞くでも嗅ぐでもなく、それでいて全方位を把握する器物の認知。一気に知覚情報量は膨れ上がり、宗介は圧倒的精度で世界の読み取る。遅鈍の感は、現在と平素の情報格差から生じる錯覚であった。
水中の如く緩慢な世界の中で、宗介と百鬼、ふたりの剣が交差する。
かつり、と。
ひどく軽く竹刀が鳴った。打ち合いの発するものとして、明らかに異常な音だった。
理由はもちろん、宗介の側にある。
宗介の一打を、百鬼が肩口で止めた。現状はそのような図に見える。
が、違う。
先んじて動いたのは百鬼の方だ。思い切りのよい彼は、自ら攻めかかるを選んだ。渾身の袈裟懸けを、宗介へ見舞おうとした。
しかしその剣を宗介は制した。食い止めるのではなく、羽のようにそっと抑え込んだ。速度が乗り切る前の百鬼の剣を、必要最小限の力のみで封じてのけたのである。結果として竹刀同士の衝突音は、ひどく静かなものとなった。
面の下で百鬼が舌打ちをする。
苛立ちではない。先手の一撃を完全に阻まれたことへの焦りである。受け太刀ごと押し切る強撃のつもりだった。繰り出す前にそれを止められるのは、流石に想定外だった。
おまけに、宗介の切っ先が離れない。
どのような力の加減によるものか、ぴたりと百鬼の竹刀に貼りついて、そこから全身の動きを束縛してくる。
そのまま、ぐいと宗介が迫った。噛み合わせたままの竹刀を滑らせ、鍔迫り合いの形へ持ち込む。
せんによる知覚強化の効能は、ただ宗介の認識と反応の速度を増すのみに留まらない。筋力が生み出す運動を、より鮮明に認識させてもくれる。これは宗介に、恐ろしく精密な五体の制御を可能にさせた。
普段は散逸させてしまう力のうねりを、宗介は竜巻めくひとつの渦にまとめ上げる。そして直後、それは爆発的な膂力として発現した。
半歩にも満たない踏み込みと、腰から生まれた上体の捻り。ただそれだけの押し込みが、百鬼の体を軽々とすくい上げる。まるで大人が子供にする仕業だった。踏ん張ることすら、百鬼には許されなかった。
一瞬の浮遊ののち、不格好ながらも百鬼は降り立つ。そこを襲った追撃の胴を捌けたのは、先の一本の経験からだ。
しかし、そこから押し返すは叶わない。
剣における主要素――一眼二足三胆四力については、かつて述べた。せんと共にあることで、宗介はその全てが底上げされる。百鬼に付け入る隙はなかった。
「ちっくしょう、また負けた!」
手もなく二本を先取され、百鬼は引き剥がすように面を外すと、荒い息のまま大の字に転げる。
「普通、一本くらい譲るもんだぞ」
「ふたつ訊きたいんだが」
「なんだよ」
竹刀から片手を外し、愛刀の鞘を撫でながら、拗ね顔の剣友に宗介は問うた。
その傍らには再び幽姿を現したせんが、機嫌のよい猫のように目を細めて寄り添っていた。ご満悦の理由は愛撫を受けるからのみならず、道場の竹刀どもに宗介との仲を見せつけ、岡惚れを牽制できたろうところにもある。
「斎藤は、勝ちを譲られて嬉しいのか?」
「そんなわけあるか!」
「ならもうひとつ。さっきの俺の一本は、わざと譲ってくれたのか?」
「そんな真似するか!」
「困った奴だな」
苦笑しつつ、宗介はその闘志を好ましく思う。
時に童めく振る舞いをしもするが、百鬼が周囲から愛されるのは、間違いなくこの純粋さが要因であろう。




