方相長屋縁起草子
本所の方相長屋と言えば、土地では知られた屋敷である。
広い敷地を漆喰塀と長屋門で囲い、大名屋敷と見紛うばかりの威容を備えたそれは、元来、斎藤某なる旗本の抱え屋敷であったという。
でありながらこれが長屋と呼ばわられるのは、素性の知れぬ、到底士分とは見えぬ者たちが住み暮らすからだ。
けれど斯様に奇妙な屋敷の存在もまた、近郊の色合いと言えなくもない。
なんとなればこの界隈は急造の都市。今と昔、尋常と異常が入り混じる汽水域であるからだ。
本所深川一帯は、かつて江戸の東はずれと見做されていた。
江戸市中より東へ参らんと欲すれば、隅田川を渡らねばならない。が、この川に架かるのは徳川家康が架橋した千住大橋のみであった。東国より、江戸へ軍勢が押し寄せた場合の備えである。
しかし泰平の世においてが、これはただ交通の便を悪くするだけの措置でしかない。
ために武家の下屋敷が点在しつつも、辺りは辺鄙の評価を免れえなかった。
だが明暦の大火、振袖火事として知られる火災が、行政の関心をこの土地へ向けさせた。
明暦3年(1657年)に起きたこの火は、江戸市街の6割を焼失させた。未曽有の被害に火災対策の重要性を認識した幕府は、家屋の分散先として、本所深川に目をつけたのだ。
公儀は一帯の開拓を推し進めて市街地を拡大。併せて武家屋敷や寺社の移転を行い、道幅の拡張を図った。また空き地を確保し、江戸城回りのみならず、市中各所に防火帯を設けた。
隅田川に新たな橋が架けられたのも、この一環である。
当初は大橋と名づけられたこの橋は、のちに両国橋との通称を得た。武蔵と下総の二国を結ぶ幹線となったためだ。
こうして順調な発展が見込まれた本所深川であったが、延宝8年(1680年)、また事情が変ずる。
この年、暴風雨が江戸を襲ったのだ。高潮のため、本所付近では多くの溺死者が出た。
江戸は元来低地であり、水の町と言うべき立地にある。重ねての水害を危惧した幕府は天和2年(1682年)、造成した土地を収公し、数多の地所を引き払わせた。世に言う江東撤退である。
この地に再び武家地が割り当てられるのは、元禄元年(1688年)を迎えたのちのことだ。
それから百余年。
元号が文化に変わり、更に数年を経た今日、隅田川以東は商業地として繁栄を謳歌している。
だが未だ土地のそこここには、目まぐるしい都市開発で生じた混乱と空隙が息づいたままだ。本所七不思議に代表される奇譚が大手を振ってまかり通るも、こうした土地柄ゆえであろう。
さまざまの怪異が跋扈する地に、自らもまた怪異のひとつであるかのように、どんと居座る武家屋敷。
遠く巾木の地に倒れ、怪僧に救われた宗介とせんが運び込まれた先こそが、この方相長屋であった。
大角内供。
それが宗介たちを拾った男の名だった。まず、僭称だろう。
内供とは内供奉の略称だ。そして内供奉とは、諸国から選出され宮中に勤める高徳の僧10名に対する尊称である。
だのにこの大角はと来たら、昼酒を食らい、縁側に転げて高鼾するのが日常なのだ。斯様な地位に列せられる人間とは到底思えない。
しかしながら大角が、方相長屋の魁帥であり、某かの霊験を備える人物なのもまた、疑いようのないことだった。瀕死の宗介を此岸に留めたは、この大角が起こした不可思議に他ならぬのだ。
『これは良いものを拾うた』
かの雪の日、大角は言うなりひらりと下馬をした。
宗介の傍らに膝を突くと、無遠慮に太い指で傷口を探り出す。そうしてそこへ、大きな手のひらを押し当てた。命取りになりかけていた深手がみるみる癒え塞がったのは、その途端だった。
傷に触れる手から火のような熱が脈打ちながら流れ込んで痛みを駆逐し、体温を蘇らせる。完治とまではいかないものの、それでも出血はぴたりと止まり、宗介の肉体は小康状態へと押し戻されたのである。
そこから先の記憶は、宗介にない。
気力だけで保っていた意識が、安堵とともにふつと途切れてしまったためだ。ありえない出来事に驚愕する暇もなく、彼の意識は昏黒に落ちていた。
後日せんに聞かされたところによれば、そののち大角は気を失った宗介を馬の背に乗せ、本所の屋敷まで運搬してくれたのだという。
宗介たちが拾われたのは、江戸市中まで十数里(およそ50kmほど)の場所だ。旅慣れた者ならば一日で踏み越える距離ではあるが、夜間に雪路を押してとなれば話は変わろう。大角が如何に健脚であろうと、負担は大きかったに違いない。
宗介からすれば、命の恩人と呼ぶ他にない相手である。
だから意識を回復した宗介は、真っ先に大角のもとへと赴いた。
そうしてせんと共に手をついて礼を述べた。せんを伴ったのは、大角が彼女の姿を見、また声を聞くと知ったからである。宗介が目覚めるより早く、この坊主はせんの口から宗介の事情を聞き取っていた。
ふたりで礼を述べた後、宗介は懐中無一文なることを自白し、どうにか金銭を稼いでこの恩義に報いるつもりであることを伝えた。人の善意が無料ではないと、経験から理解した上での言いだった。
「小童が、一端の気遣いをするでないわ」
が、大角はこれを一笑に付した。
彼からすれば、宗介など子か孫かの齢である。それが世を知ったつもりの態度を見せたところで可愛げにしかならない。
「まずは大人しう、人を頼るを覚えることよ。犬猫とて拾えば情が湧くものじゃ。無闇に放り出しはせぬわい」
言い口こそ随分だが、根底に横たわるのは明らかな優しさだった。
「とはいえ、お主らの世話焼きには若干の目論見があるとは告げおこう。儂が甘い汁を吸えるかどうか、今後見極めてゆくつもりじゃ。検分が済むまでは、ここでゆるりと過ごすがよかろう」
当座の面倒は見てやると、そう伝えてくれたに等しい。
また、善意ではあるがそれのみではないと、わざわざ言って寄越した格好だった。その方が気を楽にするだろうと、宗介とせんの性分を見抜いた上での言葉であった。
「……俺は、大角さんの利になれますか」
だが途端、食いついたのは宗介である。一種、思い詰めたふうの面持ちだった。
手痛い裏切りと決別を経て、故郷を離れたばかりの若人なのだ。隣の愛刀以外は何もかもを失って、己の価値を憂える心が痛いほどあろう。
察して下手を打ったと思いはしたが、そこは年の功である。おくびにも出さず、悠然と大角は応じた。
「その問いには答えるには、我らが濫觴を語らねばならぬ」
胡坐をかき直し、畳に向けて手を伸ばす。すると太い指の間に、二本の足を生やした瓢が駆け込んだ。換体変骨相を現した、付喪の妖魅である。
当然の顔で掴み取り、大角はそれをぐいと煽った。
方相という冠からも知れる通り、方相長屋の大元は方相氏にある。
方相氏とは大晦の追儺の儀にて、儺人、侲子らと共に、辟邪を務めた者をいう。
儀式に際して方相氏たちは矛と盾で武装し、金の四ツ目を描いた四角い仮面を被り、目に映らざる疫鬼を払う役割を果たしてきた。
しかし平安の頃を過ぎると、ここに変化が生じる。
共に鬼を払う存在であったはずの儺人の弓矢が、方相氏と侲子へも向き始めるのだ。彼らもまた、払うべき邪として見做されるようになったのである。
この零落は触穢思想――穢れに接した者は同じく穢れるという感性よりの変遷だろう。
類似の例を挙げるならば町奉行所だ。罪を取り締まる機関でありながら、これは罪人と接する不浄の部署と認識され、所属する者は将軍へのお目見えが許されなかった。
頻繁に穢れに接する方相氏もまた同様に、穢れに塗れた存在として扱われるようになった。一般には、そのように考えられている。
が、そうではないと方相長屋は語り継ぐ。
我らが追われたは、在り方にこそ仔細があった、と。
古くより人は妖魅を、相容れぬ存在と認識してきた。
ゆえに対峙の場に交渉はなく、ただ実力行使のみが存在した。此方が善、彼方が悪と決め込んだ、まったく人の天秤で量った物言いである。
それでも、直接に妖魅と関わる方相氏たちは知っていた。
妖魅のうちには不倶戴天の魑魅があると同時に、相和すが叶う魍魎があることを。
そもそも妖相とは、虫魚鳥獣山川木石、天地の間にあるあらゆるものが発しうるものだ。人もその例に漏れぬことは、奇々怪々なる伝承の数々が物語っている。
そして方相氏は、血も涙もある人なのだ。妖相を発するまでの経緯を知れば、妖魅への同情が芽生えることとてもある。
よって彼らは、次第に徹底討滅の姿勢を崩し、妖魅への厚意を示し出すに至った。
だが当時は、今日よりも遥かに夜の深い時代である。
闇は暗く恐ろしく、そこに巣食う妖魅は至極身近な脅威だった。悪鬼を討ち、御霊を鎮める守護者を、絶対的な人間の味方を、民心は必要としていた。
こうした時分において、人のみを優先しない方相氏たちの在り方は、排斥を招いて当然のものであったのだ。
ここへ更に、時の権力者たちの警戒が重なった。
基本は一種一体、独立した存在として現れる妖魅であるが、中には群れを成し、土地に根づくものがある。狐狸や蜘蛛の類、何よりまつろわぬ鬼どもがそれだ。
こうした勢力と誼を結び、人間社会の権勢と基盤を揺るがす者が方相氏の内から現れることを為政者たちは危惧した。
斯くして都は、人利を第一とする儺人のみを優遇し、方相氏と侲子を野へ追いやった。
とはいえ為政者と方相氏の関係が、完全に途絶したわけではない。
執政の側も、柔軟な対応を取りうる対妖組織の必要性は理解していた。
妖魅根絶を是とする儺人のような武力は不可欠である。だが結べる相手とは手を結び、ある程度の調和を、白黒つけない灰色の着地を目指さねば、後に待つのは人妖闘争の果てに困憊し、共倒れとなる未来ばかりだ。
従って両者は、陰で交流を保ち続けた。そもそもこうした裏の繋がりがあればこそ、方相氏たちは従容と追放を受け入れたのだ。
方相氏らは各地へ散り、以来千年の影働きを継続した。
その名を冠する方相長屋もまた、この系譜に連なり生まれた組織のひとつであった……
「儂がお主らに望むはの、金四ツ目となることよ」
ざらりと長屋の略歴を語り終えると、大角は告げた。
金四ツ目とは、方相氏たちの仮面に描かれた黄金の瞳を指す言葉だ。無論、単なる装飾ではない。見鬼の才を備えぬ者にも、妖魅の姿を視認させるための術印である。
だが時の流れと共に、言葉は大きくその意味を変えた。
現在金四ツ目の名が指し示すのは、天賦と技術を兼ね備え、かつての方相氏たちと等しく妖魅と関わる存在である。それは長屋より特別の身の証しを授かった、精鋭たちに冠される尊称であった。
方相長屋は武力仲介役を以て任ずる。
揉め事を軟着陸させる役割を果たすが、同時に悪事を働くものの横面を引っ叩く振る舞いもする。
それが何者であるかは問わない。人の世に外道が横行するように、妖魅の中にも性質の悪いものが湧くことがある。ゆえに長屋は、どちらへも甘い顔をしない。
ために長屋の仕事は、しばしば武と暴を要する命懸けのものとなる。
そもそも妖魅は、妖相の所以となった感情に縛られるものだ。我と我が身の在り方を捻じ曲げるほどに強い想念が妖相の端緒であるのだから、これは当然のこととも言えよう。
だがゆえに、その性が倫理を外れた妖魅は、目を覆わんばかりの惨事を為す。
周囲へ隷属を強い、生贄を要求し、戯れに食い散らかし、予言を与えて破滅へ導き、相争わせてその酸鼻を楽しむ。己の傾向に沿った邪悪を平然と――否、嬉々として行ってのけるのだ。
何故なら彼らはそうするように生まれついている。自身を至上とし、他を路傍の石と見るように。
仮に同じ言葉を話し、会話を行う知性があったとしても、これらに説得は通じない。根幹の思考が異なるからだ。
どう説こうと、どう打ちのめそうと、たとえば巾木の蛇のように、どれほどの時を経れども自らを省みず、その性質を変じない。
そして斯様に極端な性質を持つ妖魅は、より大きな妖威を獲得しやすい。荒神へと向く恐怖や畏怖といった人の感情こそが、彼らの妖相を強める源となるからだ。
この種の倨傲驕慢を咎めるも方相長屋の役割であり、荒事の折に頼られる利刀こそが金四ツ目であった。
しかしながら、金四ツ目となりうる人材は世に多くない。
現状、方相長屋が抱える金四ツ目はわずか十数名。怪事の全てが金四ツ目を必要とする暴力沙汰ではないとはいえ、万全を称するには大いに物足りぬ頭数だった。
つまるところ大角の利とは、人材の登用である。
宗介は妖魅を見聞きしうる優れた剣士で、これに憑くせんも切れ味無類の名刀だ。
加えて、ふたりが想い合う様子なのがよかった。
異類婚姻譚は世に多く知られるが、希少であることに変わりはない。これが金四ツ目ともなれば尚更だ。人妖共存の例として類を見ない存在になるだろう。これを逃す手はなかった。
だが眼鏡にかなったからといって、即登用とはいかぬのが金四ツ目だ。
聖人君子を求めるではないが、彼らは方相長屋の象徴である。任じる前に心の向きと品位を見定め、その善性を担保する必要があった。大角の述べた検分とはこれを指す。
「金四ツ目はよいぞ。金銭のみならぬ利得がある。お主らに欠かせぬ益も、その内に必ず含まれよう。また優れた麾下あらば、儂も大いに安穏よ。四方八方得ばかりの話ゆえ、誠心誠意励むがよかろう」
滔々と説く大角を前に、宗介とせんは目を交わした。
宗介は、坊主の類をよく知らない。それでもこの男が、相当な変わり種であるのは推察がつく。僧侶とは本来、もっと穏当な存在のはずだ。
が、胡乱なその態度の中に、不思議と信を置ける感触がある。
互いの瞳の中に同感を見て取って、ふたりはこくりと頷き合った。「よろしくお願いします」と、唱和して頭を下げる。
「うむうむ。儂の高徳に、たんと浴するがよかろう」
大角はふんぞり返って見せたのち、すいと目の光を変えた。
「が、心せよ。金四ツ目は終着に非ず。肝心なのはその先じゃ。儂はいずれ尋ねる。お主らの幸いが奈辺にあるかを。生き生きて何を成し遂げるかを。ゆえに常に問い続けおれ。その、答えをの」
斯くしてふたりは身の置きどころを得、金四ツ目を志す運びとなった。
冬寒の空の下、宗介とせんの江戸暮らしが幕を開けたのである。




