人食み鳥
――この背に翼があったなら。
晴れ渡る夏空を見上げ、ふくは思う。
それは一途な想いだった。とても一途な、恨みの念だった。
ふく――お福の方は、恵比寿屋の娘である。
恵比寿屋と言えば、寺島藩に知らぬ者のない大店だ。お福の方、との城中での呼び名も、恵比寿屋の屋号にちなんだものだった。お福様は幸いをもたらす福の神、との諂いである。
ふくの父、左近次は、この種の追従を多く受け、また好む人間だった。剛腕めいた商才で、一代にして富と権勢を築き上げた恵比寿屋当代。それが左近次という男である。
恵比寿屋は古くから薬種を扱ってきた店だ。
左近次は蔵に眠るばかりだった富を活用し、本業の傍らで金貸しを始めた。
金貸しと言っても、恵比寿屋は既にして著名な商家である。庶民相手の貸しつけなどしない。商売先を武家に限り、取引において常に巨額を動かした。
金は穢れたもの、算勘の能は身の恥と考える武士は、今だ少なくない。寺島藩士もこの例に漏れず、ために左近次は労せずして多くの人脈を得た。そうして金で固めた足場に立って、じりじりとのし上がっていった。
寺島は参勤交代の費えにも苦労する貧乏藩だ。左近次の毒が藩政に浸透するまでに、さしたる時はかからなかった。
こうして恵比寿屋左近次は、藩士に髭の塵を払われる身の上となった。
いささか策を弄しはしたが、ここまでの左近次にさしたる非はない。
債鬼だなどと陰口をされようと、借りたものを返さぬ方が元来悪い。見栄と欲で金を欲したのは借主である。その金銭を返せぬのなら、別のもので支払うは道理である。
が、人は地位に慣れ、堕するものだ。
位人臣を極めた左近次は、そこから驕り高ぶった。
その倨傲を端的に示すのが、ふくの誕生に際して放ったというひと言である。
――この子の婿は、若様にしよう。
寺島藩主には三歳になる若君がいる。男子に恵まれなかった殿様が、ようやくに得た跡継ぎだ。
左近次は生まれたばかりの我が子を、その嫁にすると宣言してのけた。一介の商人の言葉ではとてもない。
余人が口にしたなら、ただの娘可愛さ、子煩悩で終わったろう。しかし左近次には、これを実現するだけの力があった。
そうしてふくには、過剰なほどの教育が施された。
行儀作法からはじまり、手習いに漢籍の読みこなし、歌舞音曲の類までもを彼女は詰め込まれた。左近次はこうした学びの数々が、羽となって愛娘の飛翔を助けると信じていた。
期待を受け、ふくは学びを深めた。その成果を披露するたび父に褒めそやされ、彼女はこうも学習した。
努力というものは必ず、望んだ通りに正しく報われるものなのだ、と。
そしてこの教育を通し、ふくは我が父の権勢を自覚した。
ふくの指導に当たったのは、藩内でも名の知られた人物ばかりである。だがそんな彼らですら、ふくに対しては怯えめく緊張を示した。ふくの背後に、左近次の権威を見るからだ。
幼子は大人たちのそうした顔色を敏く読み取り、心に放埓の気を育て出した。父の名を出せば、誰も彼もが彼女の意のままになると学習したのだ。
赤子とは、自身では何ひとつ為せない無力者である。
だが、少しぐずれば周囲はその機嫌をちやほやと取る。満足するまであやし続ける。
ゆえに赤子は盲信する。
泣き叫びさえすれば、己の願いは全て叶う、と。
世界は望んだ通りに姿を変える、と。
それが偽りの全能感――自身と周囲を正しく認識できぬがゆえの幻想だと気づきもせずに。
ふくの心はこれだった。そしていつまでも、いつになっても成熟を見せなかった。
欲するがままを与えられ、欲するがまま奪い続けた。幸福を飽食するのは、彼女だけの特権だった。
だからふくは、その名の通りに幸せだった。
特に白無垢を着て城へ上がった日などは、幸福の絶頂にあったと言っていい。若君に嫁いだふくは、我が世の春を迎えたと確信していた。花の盛りが永劫に続くものだと信じ切っていた。
駕籠の鳥は、愛にあふれる閉じた世界で満ち足りていた。
が、しかし。
頂点へ登り詰めたなら、後は降るばかりである。
ふくは正室ではなかった。
そのことについて、彼女は納得している。『側室でよい』と父が言ったからだ。
正室であれば、江戸に上がらなければならない。住み慣れた土地を遠く離れ、将軍家の人質としてかの地で暮らさねばならない。蝶よ花よと育てられた身に、そのような生活は辛かろう。だから側室でよい。これまで通り、のびのびと過ごせばよいと、父がそう言っていたからだ。
負け惜しみであったのだと、今ならばわかる。
結局父は、自儘を通せなかった。ふくを正室にはできなかったのだ。
城へ上がったふくを待っていたのは、単に若殿が手をつけた女としての待遇だった。それは側室としての扱いですらなかった。婚儀めいた儀式こそ行われたものの、ふくは藩主の家に縁づいてすらいなかった。
そして彼女の境遇を哀れむ者は、誰ひとりなかった。
ふくが城へ上がった経緯は、藩内に広く聞こえている。高望みした父と娘の無理押しであると知れ渡っている。
ゆえに城中の誰もが、これを当然の処遇と考えた。
若殿自身もまた、ふくを敬して遠ざけた。それは憎い坊主の袈裟に対する態度であったろう。次期藩主たる彼もまた若く、藩を牛耳らんとする左近次への嫌悪を隠せなかった。
常に愛され、敬われてきたふくにとって、これは途方もない侮辱だった。
――努力というのは、必ず報われるべきなのだ。正しく報われなければならないものなのだ。
――私はこんなにも励んでいる。なのにどうして、何もかも私の望むようにならない……!
火のような不満は、年を重ねるごとに重く厚く積み重なった。
けれど、それでふくの境遇が変わることはなかった。どころか、状況は悪化の一途を辿った。
恵比寿屋左近次の跋扈は、藩が看過し続けるはずのないものである。
ひとりの商人に藩政が牛耳られる危機を打破すべく、寺島藩は若殿を中心にとある計画に着手していた。左近次を除く商人たちに廻船の講を組ませ、力をつけさせたのだ。富と権力を分散させ、その上で藩にも利を出そうという目論見である。
佞言に慣れ切っていた左近次の耳は、これを聞き漏らした。そして実行された海運は、想像以上の利益を出した。歳月を要せずして藩の財政は健全化し、つれて左近次の影響は弱まった。
こうして恵比寿屋左近次の――延いてはふくの権勢の翼は、その羽根を一枚一枚抜かれていった。
左近次に、ふくに阿る人間は日に日に減じ、ふくに侍るは、実家から引き連れてきた腰元ばかりとなった。
それでも、ふくは確信していた。
望む未来が、幸福が、必ずや我が手に収まることを。
ふくの信仰の拠り所は己の子だった。
儀礼的な若殿の渡り、数少ないその褥の機会で、彼女は子を授かっていた。しかも男子である。若殿に他に子はなく、未だ正室を迎えてもいない。ならば我が子は、寺島藩の正当な後継であろう。
だが若殿が殿様になっても、ふくの子が元服し信孝と名乗っても、ふくの子が跡継ぎと認められることはなかった。いつまで経っても、ふくと息子は日陰の身のままだった。
徹底した冷遇のさまに、噂も流れた。
――あれは本当に、殿の子か?
信孝がふくと藩主の愛の結晶であることに嘘はない。
だがそれを証明する手立ても、またなかった。
けれども不義を疑われ、ますますふくの性は狷介になった。腰元たちの姿も、この頃にはほとんど消え失せていた。
悪い流れはなおも続く。
殿様が正室を迎えたのだ。他家との縁談が、江戸でまとまったのだという。
国元には、つまり恵比寿屋には徹底して伏せられた話であり、ふくにすれば、まさしく寝耳に水のことだった。
左近次も切歯扼腕したが、今更どうなるものでもない。婚儀はやはり江戸で恙なく行われ、先年にはあろうことか、懐妊の話までもが聞こえた。
藩内の喜色は一方ならず、、江戸から伝染してきたように、城中に明るい顔が増えた。寄ると触ると産み月を迎える御正室様の話をし、めでたいことだと笑いあった。無事男子が産まれれば、その子こそが世子と言わんばかりの雰囲気だった。
歓喜と幸福の輪の中に、ふくと信孝の場所はなかった。いないも同然の扱いだった。
「……あああああああ」
意味をなさない音として、胸のうちの激情が濁流の如く口からあふれる。
晴れ渡る夏空を見上げながら、お福の方は考えていた。
たとえ万里の彼方であろうと、全てはこの空で繋がっている。
ならばこの背に翼があれば、今すぐ江戸まで飛びゆけように。
ただひと飛びに遮る距離を飛び越えて、憎き女とその子をば、啄み殺してくれように。
願いは必ず叶うものだと、ふくはそう信じてきた。
自分の希望は常に正しく、ゆえに他の夢を押しのけ実現し続けるのだと、強く強く信仰してきた。
その盲信のままに、目に入る幸せを、己の欲する光景を攫い続けてきた。
だから今日も彼女は嘆く。
己の願いが叶ぬという世の過ちを。
だから今日も彼女は願う。
他所にある幸いが、ただちに我が手へ転げ込んでくることを。
これまでの祝福が、呪詛と転じてふくを蝕む。
過日が栄光あるゆえに、ふくは正しいと信じる方角へ向け、濁り、誤った徒労を続ける。ただ欲心に駆られるがまま、飛び続けずにはいられないのだ。
祝いと呪いは時に似通う。だからそれらは、受け手次第で歪み隔たる。
どんよりと鈍く淀む瞳で、ふくは東の空を睨めつけた。
江戸の子の誕生を、正室の子の産声を、誰もがこぞって待ち受けている。
だが、いるではないか。殿様の子なら、私との子があるではないか。
どうして私は祝われない。どうしてあの子は寿がれない。望まれない。愛されない。
きっと信孝が悪いのだ。あの子の出来が悪いから、私まで同じに扱われるのだ。
――ならいらない。もう、いらない。
――あの子はいらない。
間もなく産まれる殿様の子が、私の子でさえあったなら。
私も江戸の女のように、皆に愛されるに違いない。
――いいなあ。いいなあ。欲しいなあ。
――それなら私も、その子が欲しい。
「わあぁぁあぃ……!」
随喜の歓声とも、悲嘆の慟哭ともつかぬ叫びが。
高く低く長く尾を引き、夏の空の下を流れた。
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