0693:帰ってきた
結論から言えばノイルーガの危惧は見事的中していた。
シータはジュニラック卿のところで約一カ月半もの間足止めされ、徹底的に教育を施されていた。
まだ少女であり、発展途上の部分はあれど実力面で通常の兵士をすでに超えている彼女に対して戦闘面でとやかく言うつもりはなかった。
しかし、これからヒルデ協議国を立て直すために難民たちを引き連れて祖国に戻るというにはシータの知識はあまりにも偏りすぎていた。
ジュニラック卿曰く『アルヴィスト殿下が教えていたのはあくまで机上の、前提として必要な知識。今後人と共に国を再び作ろうとする者が実際に何が起きているのか知らんでなんとするか』とのこと。
そうしてシータは返す言葉もなく、エカンダ皇国への入国を果たすための準備が終わるまでの間、という名目でジュニラック卿に約一カ月半、徹底した教育を叩き込まれていた。
ノイルーガにだってここまで詰め込んだ教育はしなかった彼が、シータに対してここまでした理由は二つある。
一つはアルヴィストからの頼みだという事。王太子直々の頼みとあれば聞かないわけにはいかない。
一つはシータが見違えるほどに成長していたという事だ。彼は意気消沈した、幼くしてイルス王国に亡命のような形でやってきた彼女を知っている。
体も細く小さく、その目には絶望の色が濃かったのを見ていた。か細い希望を思い描いて何とか進んできたというのがよくわかる様相だった。
それがどうだ。今や彼女は誰の目にも使命感に燃え、英雄と呼ばれるような超越者が歩む道を進もうとする猛者に成長していた。
だからこそ、そんな彼女の手助けをしたかった。彼にとって、これほどまでに手塩にかけて教育したのは肉親以外では初めてだった。
王族ではないので手心を加える必要もない。身内ではないために教えられないことは多いが、それでもシータはジュニラック卿から与えられる知識と実務を介して得られる経験をスポンジのように吸収し、その知識と技術を自分のものにしていった。
結局、シータがエカンダ皇国に入ることができたのは、城を出発してから二カ月以上を経過してからのこととなる。
「ふぅ……ようやく……戻ってきた……!」
彼女が戻ってきたのはエカンダ皇国の都市のひとつ。それは一時期身を寄せていた場所でもある。彼女はバタル王子と会うべく、この場所にやってきたのである。
この街の領主はバタル王子と懇意にしていた。この街を起点にまずはバタル王子に会い、今後のエカンダ皇国内部での活動の方針を決めようと思っていたのである。
「お久しぶりですミーザ嬢。随分と、立派になられましたな」
この地を治める領主であるヤンセック卿。既に六十を越える貴族であり、その頭部にはいくつもの白髪を蓄えている。
最近の問題が多発している国内事情からか、かなり疲労がたまっているようである。
この街に滞在していた時は、もう少し精悍な顔つきをしていた。しかし今はどうだ、随分とやつれてしまい顔に深い皴が刻まれてしまっていた。
「お久しぶりですヤンセック卿。お元気そうで……何よりです」
「いやはや、歳には勝てません。若い者たちがこれほどまでに成長するというのであれば、これからの世の中というのは案外安泰なのかもしれませんな」
そう言いながらもヤンセック卿の表情からはあまり良い感情を感じ取ることができなかった。
何かがあったのだと、シータは察する。
「ヤンセック卿には、御子息がいらっしゃったはずです……屋敷では、お見掛けしておりませんが……今はどちらに……?」
「……あれは……家を出ました」
家を出た。
それが文字通りどこかに出かけているという意味ではなく、このヤンセックという貴族家そのものから出て行ったのだということに気づき、シータは開いた口がしばらくふさがらなかった。
「……は?し、しかし、あの方は……ヤンセック卿の後継ぎとなるお方だったのでは……?何故そんな……」
「あれは、バタル王子ではなく、ラファラ王子こそ次代の皇帝にふさわしいお方であると見定めたのです。お恥ずかしい話です。息子の教育もまともにできず……私は……」
まさかこんなところにまで次代皇帝を決めるための選挙の影響が出ているとは思わず、シータは愕然とする。
親と子で応援する王子が異なる。それだけで一家断絶の危機に瀕するものなのかと眩暈すら覚えてしまう。
少なくとも数年前この都市に滞在していた時、彼の息子はこの領地のために必死に勉強している人物だった。
シータの父親と同年代の人物であったために、その賢明な姿に心打たれた部分も少なからずあった。
そんな人物が、何故このようなタイミングで鞍替えのようなことをしだしたのか。
しかし、ヤンセック卿の表情はやるえなさはあれど絶望しているようなものではない。
他の諸子でもいただろうかと記憶を辿るが、ヤンセック卿の息子は彼だけだったはず。
他には娘はいるものの他の領地に嫁いでいるものばかり。孫も何人もいるような状態である彼がなぜ息子に背を向けられた段階で絶望していないのか、シータは思考を巡らせていた。




