0689:彼女は西へ
シータの出立は、その数日後のことだった。
早朝。まだ日が出て少ししか経っていない時間。まだ肌寒く、ほとんど人々が動き出していない時間帯に、シータは動いていた。
可能ならば、誰にも見られずに、誰にも悟られずにいなくなろうと、書置きだけを残していた。
最後の最後に無礼を働くことになる。本来であれば顔を見て、直接別れを告げるべきだ。これほどの恩を受けて、最後に土をかけるような所業に、シータは罪悪感もあった。
しかし、最後の別れの際に、自らの覚悟と意志がぶれることを危惧したのだ。
もし皆に見送られてしまっては、決心が鈍ってしまうかもしれない。この場所にい続けたくなってしまうかもしれない。
そんなことは許されない。そんなこと許されていいはずがない。
だからこそ、彼女は一人で馬を連れ、城内を歩いて門の方に向かっていた。
「おや、このような時間に珍しい」
そんな中、不意に声をかけられる。シータは心臓が跳ね上がるのではないかと思えるほどに驚いた。
「ぁ……!じ、ジスカル様……!な、何故、このような……」
「ほっほっほ……なぁに。年寄りの朝は早いというだけのことです。この時間は、よく散歩をしているものでしてな……」
笑いながら彼はシータのもとに歩み寄ってくる。本当に散歩をしているのだろうか。それとも気配を感じ取ったからこそこの場にやってきたのか。
どちらかはわからない。
見られてしまった。この城を出ていくところを。
本当ならば誰にも見られずに出ていきたかった。最後に情を抱きたくなかった。だがシータの脳裏にはジスカルから魔法を教わった日々がよみがえってくる。
涙が湧きそうになるのを必死にこらえ、シータは深々と頭を下げた。
「ジスカル様。度重なるご指導、誠にありがとうございました。どうか、どうかこれからもご壮健でありますよう」
「……ミーザ嬢。少しだけ、この老いぼれの……そうですな……説教を、聞いていただけますかな?」
「は?せ、説教……ですか」
本当ならば今すぐにでも馬に乗って駆けだしたかった。門を開けてもらい、まだ人々の動き出していない街を飛び出して故郷へ向けて走りたかった。
しかし、おそらく最後となるジスカルとの会話を強引に切り上げるようなことはシータにはできなかった。
「人というのは、思いだけでは動きません。実利だけでも動きません。人を動かすには一種の……そう、人を惹きつける才能が必要となるでしょう。多くの者を引き連れるのなら、それを身につけなさい」
「人を、惹きつける才能」
それは所謂カリスマというものだ。多くの難民たちを引き連れ行動するのであれば、シータはそれを身につけなければならない。
金はどうにかなるにせよ、シータに人々がついてくるかはまた別問題なのだ。
「それは話術でもあり、力であり、行動でもあり、見た目でもあり、立場でもあり、それら全てを統合したものでもある。その人物の全て踏まえた才能。得られなければ、ミーザ嬢の抱く大望は、恐らく叶わないでしょう」
カリスマがなければ、ただ旅をするだけで終わる。人々を救い国を復興することなどできるはずもなく、ただ一人故郷に戻ることになる。
「ミーザ嬢は戦う力はお持ちだ。それ以外のものを求めなさい。そこから得られるものが必ずある。そして焦ってはいけない。ミーザ嬢がここにたどり着くまでにかけた年月の、さらに倍以上の年月をかけるつもりで挑みなさい」
「……はい」
それは説教というよりは助言だった。
自分に足りないもの、必要なもの。そしてそれをする上での覚悟の話。
恐らくこの城の中で最も経験を積んだと思われる人物。それがジスカル老だ。その人物からの助言はこれ以上ないほどに心強い。
「っと……あまり長く話をしていると、皆が動き出しますな」
魔法か何かで人々が動き出すのを察知したのか、ジスカル老はシータの手を取ってゆっくりと祈る。
「どうか、お気を付けて。道中の無事をお祈りしております」
「ありがとうございます。ジスカル様も、どうか、どうかお元気で」
手を取ってシータもジスカルの健康を深く祈ると馬に飛び乗る。ゆっくりと馬を歩かせると、門の前を警備していた兵たちがシータの姿を見て少しだけ目を伏せた。
シータがもし出ていくようならば、誰も止めることがないようにと、言い含められているのだ。
何も言うことなく、黙って門を開けていかせてやれと。
何も言わずに門が開いたことに、シータは城内の者たちの気遣いを感じ取っていた。
門が開いたその先に、一人の人物が立っているのが見えた。
「アルヴィスト……殿下……」
それは秘密の通り道を使って先回りしていたアルヴィストだった。門の前で仁王立ちするその姿を見て、シータは溢れそうな涙を必死にこらえる。
「行くのかい?」
「……はい」
「……そうか。シータ」
「……はい」
「頑張って」
それ以上の言葉はいらないというかのように、アルヴィストは手を差し伸べる。
シータはその手を強く握り僅かに嗚咽を漏らす。十秒か、あるいは一分か。そうしていた彼女は自然とアルヴィストから手を離し、馬を操る。
「それでは、アルヴィスト殿下、これにて……またいつか!またいつかご恩をお返しに伺います!必ず!必ず!」
もうアルヴィストからの答えはなかった。
シータは馬を駆り、早朝の街へと駆けていく。
彼女は自分の戦いに臨むこととなる。誰にも成すことができないであろうことを成しに行くのだ。
アルヴィストには、それを見送ることしかできなかった。




