第82話 迷宮の立体構造と、優先すべき目的
踏み締める石階段の感触が、足裏から膝へと伝わってくる。
地下二階の閉塞的な空気から一転し、階段を登り切った先には、再び第一階層の冷たく湿った風が吹き抜けていた。
俺は足を止め、【アイテムボックス】から羊皮紙の地図を取り出した。
アキラたちが掲げる松明のゆらめく火光にかざし、これまでに書き留めた通路や広間の配置と自分の記憶を冷静に照らし合わせる。
(洞窟の入口から南側には、あの広大な湖が存在していた。俺の描いた地図が正しければ……俺たちの真上にはあの大きな湖が広がっているはずだ)
頭上に横たわる莫大な水量の存在を意識すると、岩天井の湿り気がどこか不気味な圧迫感を帯びて感じられる。
万が一にも天井が崩落すればひとたまりもないが、このダンジョンは『試練の女神』が創設したとされるもの――厳かな神聖さの宿るこのダンジョンが崩落することはないだろう。
視線を地図から上へと巡らせると、階段の先には広大な空間が広がっていた。
湿った硬い岩肌の床には、あちこちに大小の黒い水たまりが散在し、天井からの水滴がぽたりと音を立てて波紋を広げている。
周囲の気配を探ったが、見渡す限り魔物の影や殺気は感じられない。
広場の壁面を注意深く観察すると、別の領域へと繋がる不揃いな洞穴が、全部で「五つ」ぽっくりと暗い口を開けていた。
穴の大きさはランダムで、自然の侵食によるものか、迷宮の意志によって穿たれたものかは判別がつかない。
* * *
「とりあえず、しらみつぶしに当たるぞ」
俺が振り返って告げると、アキラとルミは力強く頷いた。
「うん、迷ったら一つずつ潰していくのが一番だよね」
「はい、行きましょう。トオル君」
背後のランも、言葉こそ発しないものの、ぼさぼさの若葉色の髪を小さく揺らして無言で頷いている。
俺は地下一階の羊皮紙にこの大空間の楕円形を描き足すと、アキラから短剣を借り受ける。
そして、五つの洞穴の入口横の岩肌に、それぞれ識別用の深い刻み傷を削り込んでいく。
この空間への入り口、そしてこれから挑む穴に印を刻んでいった。
準備を終え、俺は『疾風の剣』の柄に手を置き、左腕の『鉄の小盾』を軽く叩いて先頭に立った。
* *
選び取った最初の穴は、大人が二人並んで歩ける程度の横幅を持っていた。
試練の洞窟の通路としてはこれがデフォルトのサイズであり、剣を振るう空間的余裕も十分に確保されている。
粘土質の泥を踏みしめながら、湿った横穴を慎重に進んでいく。
壁面の苔が放つ微かな燐光と松明の火が混ざり合い、視界を不気味な薄緑色に染め上げていた。
十数分ほど歩いたところで、前方の水たまりから「グコッ」という湿った重低音が響いた。
泥の中から現れたのは、体長一メートルを超える巨体を持ったカエル型の魔物――『ポイズン・トード』だ。
斑模様のイボに覆われた皮膚から紫色の粘液を垂らし、濁った黄色い瞳で俺たちを睨みつけている。
こちらが間合いを詰めるより早く、ポイズン・トードの口が大きく開き、粘着質の赤い舌が音を立てて高速で伸びてきた。
鞭のようにしなる舌の軌道を冷静に見極め、俺は左腕の『鉄の小盾』を斜めに突き出して弾く。
ガンッ!
と鈍い打撃音が響き、弾かれた舌が虚空を泳ぐ。
隙を晒した敵との距離を一気に詰め、右手の『疾風の剣』を滑らかに横一文字へ一閃した。
【斬撃付与】の乗った鋭利な刃は、毒ガエルの柔らかい首を抵抗なく切り落とした。
* *
「一応、持っていくか」
解体屋で引き取ってもらえる魔物だ。
俺は素早く、獲物を【アイテムボックス】へ収容した。
さらに曲がりくねった通路を進むと、急激に視界が開け、再び見覚えのある大広場へと出た。
壁面を確認すると、先ほど短剣で刻んだ傷跡がはっきりと残っている。
「これで二つ潰せたな」
「この印のところに入ると、この印のところに出るから、残りは三つだね」
「どこを進みますか、トオル君?」
最初の広場へと戻る環状構造だと判明し、選択肢は順調に狭まった。
「この穴にしよう」
俺は残る三つの未探索の穴の中から一つを指差し、再び隊列を整えて足を踏み入れた。
* * *
正解の道かどうかなど、実際に行ってみなければ誰にも分からない。
合理的探索とは、不確定要素を行動によって一つずつ確定した事実へと変えていく作業の繰り返しだ。
暗い通路を進むと、今度は毒を持たない通常種の『トード』が姿を現した。
巨体を揺らして突進してくる敵に対し、俺は足元を固定して踏ん張り、小盾で正面から受け止めた。
「グガッ!」
と鳴く敵の勢いを押し返し、体勢を崩した腹部へ深く突きを繰り出して一蹴する。
これも獲物として【アイテムボックス】へ素早く回収した。
* *
さらに奥へと足を進めると、通路の脇に小部屋のような空間が現れた。
松明の光が照らし出したのは、部屋の隅に置かれている古びた木製の宝箱だった。
「開けてみるか」
俺が呟くと、アキラが少し不安そうに身を寄せた。
「大丈夫かな……? 罠とか仕掛けられてない?」
「私が鑑定してみますね」
ルミが静かに進み出で、『祝福の杖』の先を宝箱に向け、スキルを発動させた。
彼女の瞳に青い光が宿り、数秒の沈黙の後、ホッと息を吐いて振り返る。
「大丈夫みたいです。罠はありません」
ルミの鑑定結果を受けて宝箱の蓋を押し開けると、中にはギッシリと黒ずんだ金属硬貨が敷き詰められていた。
一枚ずつ枚数を確かめると、ちょうど100枚の銅貨だった。
「思わぬ臨時収入だな」
俺は硬貨をまとめて、【アイテムボックス】の中にある銅貨用の財布を取り出して保管した。
宝箱のあった小部屋を後にし、さらに通路を奥へと進んでいく。
やがて湿った風の流れる音が大きくなり、少し開けた場所に出た。
* *
部屋の奥壁には、地下から上方向へと続く重厚な『石階段』が設置されていた。
段上からは、地下とは異なる新鮮な風が吹き下ろしてきている。
「この上って湖のはずだよね。島があるのかな?」
「だとすると――そこが、このダンジョンの『ボス部屋』の可能性が高いな」
この迷宮のコンセプトが見えてきた。
地下へとひたすら潜るのではなく、湖の中央へと探索者を導いている。
これまでに費やした時間を、頭の中で計算する。
今朝から休憩をこまめに挟みつつ、約6時間ほど探索を続けてきた。
地上ではちょうど昼頃だろう。
アキラの移動補助魔法『スムーズ』のおかげで、徒歩による疲労は驚くほど少ない。
ボス戦になっても十全に戦えるコンディションを保っていた。
* * *
「よし、先に進むぞ」
俺が階段へ足をとめ、声をかけた時、アキラがおずおずとした様子で口を開いた。
「ねえ、トオル君……この大きな部屋から、まだ行ってない道があるよね。そっちは調べなくていいの?」
アキラの疑問はもっともだった。
なにしろ、直前に宝箱から銅貨100枚を得たばかりだ。
残りの未探索の穴の先にも、良い物が眠っているのではないかと考えてしまうのは自然な心理と言える。
俺は足を止め、アキラの瞳を見つめながら静かに首を振った。
「俺も気になってはいるが、今回のクエストは『一番最初に桃油ナマズを領主へと持っていく』というのが達成条件だ。アキラの移動魔法があるから楽勝だとは思うが、競争相手もいる。ここは寄り道せずに先に進みたい」
一呼吸置き、俺はリスク分析を付け加えた。
「それに、行った先にあるのが宝箱ではなく、魔物の集団である可能性もあるからな」
俺の合理的な説明を聞き、アキラはハッとしたように頷いた。
「そうだね! 私たち、競争してるんだった。ごめんね、トオル君」
「私も未探索の場所は気にはなりますが、先に進みましょう」
ルミも納得したように微笑み、ランもいつものように無言でこくりと頷いた。
まだ見ぬ宝箱の誘惑に目を奪われることなく、パーティの意思が「最速での目的地到達」へと統一された。
俺は静かに頷くと、上り階段へと一歩を踏み出し、次なる領域へと足を進めた。




