第83話 霧深き湖畔の祭壇
石階段を一段ずつ踏み締め、地上へと登りつめる。
地下特有の不快な湿気と泥の匂いが次第に薄れ、代わりに肌を刺すような冷気と、水を含んだ爽やかな風が頬をなでた。
視界が開けると、そこは濃い乳白色の霧が静かに立ち込める、広大な地上湖の中央だった。
階段の出口の上には、雨風を凌ぐための無骨な石造りの庇が突き出している。
俺たちが踏み立っているのは、湖の真ん中に浮かぶ直径百メートルほどの丸い島だった。
島には青々とした草木や低木が程よい密度で生い茂り、どこか隠れ家や秘密基地を思わせる独特の静けさを漂わせている。
* *
「敵はいないみたいだな。あの祭壇を調べるか」
周囲の気配をくまなく探り、即座に襲いかかってくる魔物の影がないことを確かめてから、俺はそう切り出した。
島の反対側に、草木の合間から古びた石造りの構造物が覗いている。
「そうだね。階段を登ったら敵がうじゃうじゃいるかと思ったけど、静かな場所でよかった」
「手がかりになりそうなのは、あの祭壇くらいですからね」
アキラとルミが同意の頷きを返す。
背後のランも、言葉はなくとも不安げな様子を見せることなく俺のすぐ後ろをついてくる。
おそらく、この島全体が『白霧の洞窟』のボス部屋として機能しているのだろう。
だが、姿を現すべきボスの気配はない。呼び出すための何らかの仕掛けが存在することは予想できた。
湿った草を踏み分け、島の反対側にある祭壇へと向かって歩く。
近づいてみると、その祭壇は長い年月を経て苔に覆われた頑丈な石組みで作られていた。
祭壇の手前に置かれた平らな石のプレートには、古びた掠れ文字で『いけにえを捧げよ』と深く刻み込まれていた。
* * *
「いけにえ、か……」
俺はプレートの文字を見つめながら、手元の知識を整理する。
冒険者ギルドで閲覧できる『有料情報』を購入していれば、この祭壇に何を捧げるべきかという明確な答えが書いてあるのだろう。
だがあいにくと、俺は無料情報しかチェックしていない。
金をケチっているわけではない。
冒険者ギルドでは生存に関する情報は無償提供されるのが基本だ。それ以外の有料情報は自力で解決できるものばかりだ。
俺のパーティには幸運値が高く観察力に優れている魔法使いが二人もいる。
他のパーティがすでに答えにたどり着いている有料情報は必要ない。
それに何より、俺はこの世界で自分の力を試したいと思っている。
単純に『生き残る』だけが目的ではなく、冒険者として『楽しみたい』という欲求があるのだ。
自分たちの頭で状況を観察し、思考して答えを出すプロセスそのものに価値があるし、その方が達成感も得られるというものだ。
* *
「冒険者ギルドで無償提供されている情報だと、このダンジョンのボスは『ハイドラ・ヴァイパー』――口から強力な酸性毒液を散布する巨大な三頭の蛇竜らしい」
俺が提示した情報を元に、アキラとルミが即座に考察を巡らせ始めた。
「そのボスを呼び出すための生贄ってことだよね……何か特定の獲物が必要なのかな」
アキラが首をかしげると、ルミが思案するように顎に手を当てた。
「相手が巨大な蛇だとすると……途中で倒してきた『トード』が生贄として正解っぽくないかな? 蛇ってカエルを丸呑みにするイメージがあるし」
二人の推測に、この状況(ダンジョン攻略)をよく分かっていないランが可愛らしく小首をかしげている。
俺は二人の提示した仮説を、極めて妥当で合理的なものだと判断した。
「よし、試してみる価値は十分にあるな。だがその前に、ボス戦に向けた準備を整えるぞ」
俺は【アイテムボックス】へ意識を集中し、保管してあった『解毒薬』の小瓶を人数分取り出して全員に手渡した。
「ハイドラ・ヴァイパーの吐く酸性毒液は厄介だ。戦闘中に焦って飲むより、事前に服用して耐性を高めておいた方が生存率が上がる」
全員で解毒薬を飲み干し、苦い液体が喉を通り抜けるのを確認する。
続いて俺は、俊敏性が下がるリスクを考慮しつつも、圧倒的な防御力を優先して装備を切り替えた。
『鉄の小盾』を外し、重厚な威容を誇る『朽ちた躯の大盾』を装備した。
耐久(+7)の補正と【衝撃軽減(小)】の特殊効果は、巨大な蛇竜の打撃や毒液の噴射を受け止めるための不可欠な要塞となるはずだ。
「アキラ、ルミ、ラン。お前たちは祭壇から距離を取り、後方で待機してくれ」
三人を安全な位置まで後退させ、俺は一人で祭壇の前へと歩み寄った。
* * *
まずは【アイテムボックス】から、道中で倒して回収しておいたノーマルタイプのカエルの魔物「トード」の死体を取り出し、祭壇の上に出現させた。
ポツンと置かれた大きなカエルの死骸。
しかし、数秒が経過しても、周囲の風や水面に変化は訪れない。
静けさだけが島を支配していた。
「……こいつじゃないのか。――と、なると」
俺は祭壇の上のトードを素早く【アイテムボックス】へ回収し、すぐさま別の可能性を試すことにした。
今度は、毒を持つ上位種である『ポイズン・トード』の死体を祭壇の上へ出現させる。
その瞬間だった。
――ひゅぉおおおおおおっ!
島を包む空気が一変し、耳腔を刺すような冷たく不気味な突風が吹き荒れた。
静まり返っていた湖面が猛烈に波打ち始め、祭壇のすぐ先の水域が沸き立つように泡立ち出す。
どばっ!
と音を立てて水柱が上がり、湖底から巨躯が躍り出た。
現れたのは、体長十メートルを超える青い水色の鱗に覆われた化け物――三つの頭を持つ蛇竜『ハイドラ・ヴァイパー』だった。
三つの鎌首が不気味に首をくねらせながら、冷徹な爬虫類の瞳で俺たちを睨みつけ、周囲の様子を探っている。
やがて真ん中の巨大な頭部がすっと身を乗り出すと、祭壇の上に置かれたポイズン・トードの死体をさっと一口で丸呑みにした。
* *
(生贄は、ポイズン・トードの方だったか)
生贄の摂取を終えたボスの威嚇と同時に、湖面から生じた怪しい吐息によって、島を包む霧が一層濃さを増していった。
視界が急激に狭まる中、島の周囲のあちこちから、水音と共に無数の気配が這い上がってくる。
粘液の音を立てる茶褐色の『マッド・スライム』。
空中をゆらゆらと漂い、微弱な電流を放つ『浮遊クラゲ』。
そして、鋭い爪と牙を剥き出しにした『水棲ゴブリン』。
「……ボスの呼び出しに呼応して湧いたのか……!」
見渡す限り、島の各所から出現した雑魚モンスターの数は、軽く三十体を超えていた。
ボスであるハイドラ・ヴァイパーの巨躯に対峙しながら、雑魚とはいえ大群を相手にするのは、後方の仲間たちを危険に晒す最悪の乱戦構造だった。
俺は即座に状況を分析し、一切の躊躇なく固有スキルを発動させた。
『ダブル』――!
全身の魔力が一瞬で跳ね上がり、俺の身体から光の輪郭が剥がれ落ちるようにして、もう一人の俺(分身)が精緻に生成される。
誕生したもう一人の俺は、後方で武器を構えるアキラたちの目の前へと瞬時に出現した。
俺の意図を完全に共有した動きで、彼女たちのガードにつく。
「アキラたちの方は任せたぞ」
「――ああ、任せろ」
分身と短く言葉を交わし、後方の守りを託した。
俺自身は『朽ちた躯の大盾』を固く構え、前方の三頭の蛇竜へと鋭い視線を向けた。




